君までの距離 第三章 4


 あれから二日が経った、木曜日のこと。放課後の部室に赴くと、扉の前で東雲くんが待っていた。
「こんにちは!」
 私を見付けると、東雲くんは手を上げて明るく笑った。
「また見学させてもらいたくて、来ちゃいました。今日も参加していいですか?」
 と懐っこく言う東雲くんに、私は尋ねた。
「今日は部活はないの?」
「はい。あ、冬っちから聞きました? 俺がバスケ部だってこと」
「ええ。じゃあ、兼部を考えているの?」
「それもいいかなーって、ちょっと思ってます」
 そう言葉を交わしながら、東雲くんと共に部室に入る。
「冬っちは掃除当番なんで、ちょっと遅れると思いますよ」
「そう」
 東雲くんの言葉に頷いて、席に着き、鞄から原稿とペンケースを取り出す。先日と同様、私の隣に座った東雲くんは、「えへへ」と嬉しそうに笑っていた。
「何?」
「冬っちが来るまで、翼先輩と二人っきりだなぁーって」
「そうね」
「何か、どきどきしません?」
「しないわね」
「ちぇー、つれないなぁ」
 即答した私に、東雲くんは唇を尖らせる。
「でも、そこが好きですよ。翼先輩の、冷静なとこ」
 東雲くんは、小首を傾げて、そう微笑む。
 私はペンケースを開けてシャープペンシルを取り出したが、それを一旦机に置き、椅子に座ったまま身体を九十度回して東雲くんに向き合った。
「東雲くん」
「何ですか?」
「いつまで芝居を続けるつもりか知らないけれど、もう、種明かしといきましょう」
「はい?」
 東雲くんがきょとんとしているが、構わず続けた。
「ずっと引っ掛かっていることがあるの。初めて私と会った時、君、私に何て言ったか覚えている?」
「さあ……」
「『あなたが翼先輩ですか』って言ったのよ、東雲くん」
「何か、おかしいですか?」
 東雲くんはゆっくりと首を傾ける。
「ええ、不可解ね」
 私はそこで一つ息を吐き、言った。
「東雲くんは私に一目惚れした、って話でしょう? 一目惚れをした相手に、そんなことを言うかしら? まるで、その時初めて顔を見たみたいだわ。容姿に惹かれたなら、ちゃんと顔を覚えていないとおかしいと思わない?」
 私の言葉に、東雲くんはいくつか瞬きをした。そして。
「……まあ、それもそうですね」
 意外にも、あっさりと頷いた。
「それからもう一つ聞きたいことがあるわ。東雲くん、涼子を知っている?」
「涼子?」
「新橋涼子、よ」
「新橋……ああ、もちろん知ってますよ。涼子先輩。女バスのキャプテンですよね」
 私は、そう、と頷く。
「私はね。東雲くんと涼子に繋がりがあって、何らかのやり取りの元、君が文芸部に来たと思っているわ。違う?」
 それは、確信に近かった。確実に、涼子と東雲くんは結託している。そう思った。
 いつも浮かべている無邪気な笑みを消し、無表情で黙り込む東雲くんは、何かを考えているようだった。
 たっぷり一分は沈黙した後、東雲くんの口から「参ったな」と苦笑が漏れた。
「そんなんじゃありませんよー……って言いたいとこですけど、もう誤魔化しても無駄っぽいですね」
 東雲くんはがしがしと自らの頭を掻いてから言った。
「そうですよ。俺が文芸部に来たのは、涼子先輩に頼まれて、です」
 その答えに、私は深く溜め息を吐いた。やはり、涼子の仕業であったか。
「具体的に、何を言われたのか教えてくれる?」
 尋ねると、東雲くんは「えーと」と呟いた。
「奥手な冬っちに、自分の気持ちに気付いて欲しいからーって……」
 東雲くんの話では、こうだった。「お前のクラスに黒須という子がいる。彼は私の親友から告白をされたのに、恋愛に臆病で答えを先延ばしにしている。ちょっとしたライバル役を演じて、尻を叩いてやってくれ」――というようなことを、涼子に言われたらしい。
「それで、私を好きな振りをしたっていうの?」
 そんなことを頼む涼子も涼子だが、引き受ける東雲くんも東雲くんである。すると東雲くんはぱたぱたと手を振った。
「あ、そこは誤解して欲しくないです。涼子先輩がよく翼先輩の話をするので、俺、それ聞いて、前から翼先輩のこと気になってたんですよ。だから引き受けたんです。実際に文芸部で話してみたら、面倒見がよくて優しい人なんだってわかったし。段々、冬っちにあげちゃうの、勿体なくなってきたりもして」
「もう、その役、演じなくていいわよ」
 東雲くんは「これは嘘じゃないですよ」と首を横に振る。
「それはともかく。涼子には、後で厳しく言っておかないといけないわね。心配してくれるのはありがたいけれど、やり過ぎだもの」
 私は腕組みをして呟いた。涼子が何かを仕出かすつもりだろうと思ってはいたが、こんな手を使ってくるとは予想もしていなかった。
 それを聞いた東雲くんは、でも、と言う。
「実際、冬っちは、俺が来たことで揺らいでますよ。俺の存在、少しは効果あったんじゃないですか?」
「そうだとして、そんな嘘の告白で思い悩まされた黒須くんの身になってみなさい」
 月曜日と火曜日の、しょんぼりとした黒須くんを思い出す。その原因が嘘だったなんて、あまりに可哀想だ。
「それは……悪かったなーって思いますけど」
 東雲くんはしゅんとした。東雲くんも優しい子だ。だから、これ以上責めてはいけない。
 そう思ったのだが、東雲くんはそろりと口を開き、こんなことを言った。
「ただ、あの。こんな早くにばれたって知られたら、涼子先輩に怒られそうなんで……もうちょっとだけ、俺に付き合ってくれませんか?」
「何ですって?」
「もうちょっと、この、翼先輩に片想いする俺として、文芸部に来させてください」
 それはつまり、偽りの片想いを続けるということか。
「嫌よ。黒須くんを欺くようなこと、したくないわ」
 私は顔をしかめた。しかし、東雲くんは手を合わせ、私を拝み倒す。
「お願いします! 涼子先輩、怒ると怖いんですよー。翼先輩が冬っちと上手くいくまで、ただ側にいさせてくれればいいんです。付き合ってください!」
 何度も頭を下げる東雲くんの必死さに、断るに断れなくなり、私は渋々承諾した。
「……わかったわ、付き合うわよ」
「ほんとですか! よかったぁ、ありがとうございます!」
 東雲くんは心底安堵した様子で、私の手を取った。やれやれ、と、私は再び溜め息を吐く。
 その時だった。ふと、部室の外に何者かの気配を感じ、私はそちらに顔を向けた。
 誰かが、扉の向こうにいる気がする。
 疑問に思った私は、東雲くんの手をそっと下ろし、無言で椅子を立って、扉に向かって歩いていった。東雲くんが不思議そうに「翼先輩?」と私を呼んだが、私は躊躇いなく扉に手を掛けた。
「もしかして、黒須くん?」
 扉を開けながら言うと、そこには本当に黒須くんがいた。扉の隣に背を張り付けていた黒須くんは、私が出てきたことに驚いたようで、肩をびくっと震わせた。
「……あ、あの……」
 声を発した黒須くんの唇が、微かに震えている。そして、私を見上げる瞳は、少しずつ潤んでいく。
「どうしたの?」
 そう聞くと、黒須くんの瞳から大粒の涙が溢れ落ち、私はぎょっとした。それも束の間、黒須くんは小さな嗚咽を一つ漏らし、部室の前から駆け出した。
「黒須くん、どうしたの」
 黒須くんの背中に呼び掛けるが、黒須くんは足を止めることなく、逃げるように走り去ってしまった。
「どうかしたんですか?」
 東雲くんが席を立ってこちらにやってきて、黒須くんのいなくなった廊下に顔を出す。
「いや……今、ここに黒須くんがいて……でも走っていっちゃったわ」
「冬っち、今の俺達の話、聞いてたんじゃないですか?」
「やっぱり、そう思う?」
 もしや、とは思ったが。
「だとしたら、追い掛けた方がいいですよね。冬っちは繊細そうだから、事実にショック受けたのかも知れません」
「黒須くん……!」
 私は、慌てて黒須くんの後を追った。
「頑張ってくださーい、翼せんぱーい」
 なぜか、東雲くんのそんな応援が耳に届いた。