君までの距離 第三章 5


 部室棟を後にし、黒須くんを捜した。
 辺りを見回しながらひた走るが、黒須くんは見付からない。
 校舎に入った私は、早歩きに切り替えて一年C組へ行き、扉の小窓から教室の中を覗いた。しかし、そこに黒須くんはいなかった。
 次に、図書室へ向かう。閲覧スペースや棚の間をくまなく見て回った。けれどやはり、ここにもいない。
 黒須くんがいそうな場所は、他には思い付かなかった。私は宛もなく、ふらふらと校内をさまよい歩いた。
(まさか、帰った?)
 ふとそう思い、校舎を出て校門の外へ足を運んだ。バス停では数名の生徒がバスを待っていた。
 その中にも、黒須くんの姿はない。
 バス停に張られた時刻表を見ると、ほんの数分前に、黒須くんや私が乗る系統のバスが到着したようだった。――これに乗って、帰ってしまったのだろうか。
 私は肩を落とし、部室棟へ戻った。
 私が知っている黒須くんは、一年C組で、本が好きで、文芸部に入部を希望してくれて、乗車するバスが私と同じ。それだけだった。思っていたよりずっと、黒須くんのことを知ってはいなかったのだ、と気付かされ、ちょっと落ち込んだ。
 そして、脳裏には、先程の黒須くんの涙が焼き付いている。黒須くんを傷付けてしまった。そう思うと、苦しい。私は黒須くんを泣かせてばかりだ。
 とぼとぼとした足取りで部室棟へ戻る途中、中庭の方向から、人の声のようなものが聞こえてきた。
 くすん、という微かな音と、小さな嗚咽。
 啜り泣くようなその音に、もしやと思いそちらへ向かう。すると、そこに、黒須くんはいた。黒須くんは、中庭に一つだけ設置されているベンチに腰掛け、肩を震わせて泣いていた。
 躊躇ったが、そっと歩み寄り、呼び掛ける。
「黒須くん……?」
 俯いていた黒須くんは身体をびくりと震わせ、頬を拭っている手を止めた。
「ここにいたのね」
「…………」
「私も、座ってもいい?」
 黒須くんは俯いたまま黙っていた。じっと答えを待っていると、やがて、黒須くんの首がこくんと上下に動かされた。
「ありがとう」
 私は黒須くんの隣に腰を下ろす。私が隣に座ったことで、黒須くんは泣くのを堪えようとしているようだったが、まだ涙は静かに流れ続けている。その姿に、胸が痛んだ。
「さっきの――東雲くんとの話、聞いていた?」
 そう尋ねてみる。黒須くんはしばし沈黙を保った後、涙声でぽつりと、「少しだけ」と答えた。
「そう……ごめんね」
 とにかく謝罪しなければ、と思い、私は謝った。
「先輩が謝られることじゃ、ありません」
 黒須くんが小さく首を振り、顔を上げた。濡れた瞳が私を捉え、黒須くんは口を開く。
「もう遅いのはわかっています。でも、これだけは、言わせてください」
 黒須くんの指先が、弱々しく私の手に触れる。そして、言った。
「僕は、先輩が好きです」
 その一瞬、時が止まった気がした。
「……え?」
 私が首を傾げると、黒須くんはまた、俯いてぽろぽろと涙を溢した。
「いつもそう……僕は無くして初めて、それがどれだけ大切なものだったかを知るんです。もう先輩は東雲くんを見ていらっしゃるのに、今更本当の気持ちに気が付くなんて……自分が嫌になります」
 そう呟いてから、黒須くんは再び私を見る。
「先輩、好きです。大好きでした。……もう少し早ければ、ずっと、先輩の一番近くにいられたんでしょうか……」
 好き、という言葉は、嬉しかった。けれど、黒須くんの言う意味が、よくわからない。
「黒須くん」
 私はストップをかけるため黒須くんを呼んだが、黒須くんは早口で続ける。
「いえ、いいんです。一時でもこんな僕を好きだと思っていただけただけで、十分幸せです。先輩と東雲くんを引き裂こうなんて思っていませんので、安心してください。先輩はどうか、東雲くんと幸せになってください。そして、できることなら、僕とは今まで通りでいてください。お願いします」
「ちょっと、黒須くん?」
「でも。今日はもう、部室へ戻る勇気はありません。東雲くんに会ったら、もっと泣いてしまいそうですし。……明日は笑ってお会いできるようにします。ですから」
 さようなら、と言い、黒須くんは涙を拭ってベンチを立つ。
「黒須くん、ってば」
 私は、去ろうとする黒須くんの腕を掴んで引き止めた。
「は、離してください。僕、今日は、部活には参加できません」
「さっきから何を言っているの?」
 私は黒須くんの顔を覗き込んで尋ねた。
「もう少し早ければ、とか、東雲くんと幸せになれ、とか。何を言っているのかさっぱりわからないんだけれど」
 黒須くんの口振りでは、まるで、私が東雲くんに心変わりしてしまった、とでも言っているようだった。
 黒須くんは、私の視線から逃れようとするように目を伏せる。
「……誤魔化さなくていいです。僕は、聞いていたんですから。ずっと僕を想ってくださっているわけじゃないのはわかっていたのに、いつまでもぐずぐずとしていた僕が悪いんです。先輩が東雲くんを選ばれたのは、当然のことだと思います」
「だからその、東雲くんを選んだ、って何なの。私、東雲くんのことは何とも思っていないわよ」
 私の言葉に、黒須くんは涙を引っ込めて、「え?」と目を丸くした。
「先輩と東雲くんは、お付き合いされたんじゃないんですか……?」
「どこからそんな話が出てきたの。私は今も、黒須くんが好きよ」
 私は手櫛で黒須くんの髪を優しく梳きながら言った。
「で、でも、僕……確かに。東雲くんが先輩に、付き合ってください、って言ったのを。先輩が、わかった、って。付き合う、とお返事をされていたのを、確かに、聞いたんです」
 黒須くんは戸惑っている様子だった。そして、心当たりのない私はもっと戸惑った。
「そんなこと言っていないわよ」
 と答えてから、不意に、東雲くんとの会話を思い出す。

 ――ただ側にいさせてくれればいいんです。付き合ってください!
 ――わかったわ、付き合うわよ。

 ……あれか。
 蘇った十数分前の記憶に、私は短く息を吐いた。誤解の原因は、それだと思われた。
「そうね、言った、かも知れないわね……」
 軽い頭痛を覚え、こめかみを押さえながら、改めて答えた。
「かも知れない、って、そんな」
「だって、それはそういう意味じゃなかったんだもの」
 私は黒須くんに、その誤解の元となったであろう台詞の、前後の会話を説明した。
 私の説明を聞き、東雲くんと私の正しいやり取りを知った黒須くんは、みるみる顔を赤くしていった。
「そ……そう、だったんですか? ご、ごめんなさい、僕、勘違いをして……!」
 黒須くんはそう言って何度も頭を下げる。
「勘違いして、泣いたりまでして。恥ずかしいです……ごめんなさい」
「それはいいけれど。それより、さっきの、本当?」
 私は指先で黒須くんの頬に触れた。
「本当に、私のこと、好きだと思ってくれているの?」
 私の問い掛けに、黒須くんは顔を赤らめて目を泳がせる。「えと」「その」と小声で意味のない言葉を漏らす黒須くんだが、やがて、真っ直ぐに私を見た。
「……はい。僕は、先輩が好きです」
 恥ずかしそうに、けれど真剣に、黒須くんは言う。
「僕を、先輩の恋人にしてください」
 黒須くんの言葉は、どこまでも真摯な響きで私の胸に届いた。
「本当にいいのね?」
 ついつい、私は確かめてしまった。黒須くんは躊躇うことなく頷く。
「はい、先輩となら」
「……ありがとう」
 私は黒須くんの肩を抱き寄せ、その小さな身体を抱き締めた。初め、黒須くんは土曜日と同じように肩を強張らせていたが、しばらくすると、そっと力を抜き、私に寄り掛かった。
「先輩」
 私より少し背の低い黒須くんは、嬉しそうに、私の肩に頬を擦り寄せる。
「僕、怖かったんです。今まで、誰かに優しくしていただくことも、誰かを好きになることもなかったので……恋なんてできないと思っていました。でも、先輩とは、ずっと一緒にいたいと思ったんです。ですから」
 黒須くんは顔を上げて、甘くはにかんだ。
「ずっと、側にいさせてくださいね」
 そんなの、頷くに決まっていた。

◆◇◆◇◆

 あの後。
 部室へ戻ると、東雲くんの姿が忽然と消えていた。
 トイレだろうか、と思ったが、鞄まで共になくなっている。その代わり、机の上に、一枚の紙が置いてあるのを見付けた。
『冬っちと上手くいきましたか? 東雲』
 そんな一文の末尾に簡単に描かれたスマイルマークが、紙を覗き込む黒須くんと私に笑い掛けている。私は、黒須くんと顔を見合わせた。
 もしかしたら。東雲くんはここまで、全てお見通しだったのかも知れない、と思った。だとしたら、私は涼子と東雲くんには敵わない。敵いっこない。


 そして私達はいつものように、二人きりで活動し、二人でバスに乗り、二人席に並んで納まった。
 バスが発車すると、黒須くんはそっと、私の手に自らの手を重ねた。
「黒須くん?」
「少しだけ、こうしていては、駄目ですか? 人が多くなってきたら、離しますので」
 俯きながら、小声でそう言う。私はふっと笑った。
「別に、離さなくてもいいわよ」
「えっ……、いえ、それはちょっと、……恥ずかしいです」
 もじもじする黒須くんに、私は、ただ優しく触れているだけだった黒須くんの手を、きゅっと握り締めた。黒須くんは照れたように微笑し、控えめに私の肩に寄り掛かって目を瞑る。
 今までも、私の隣に、黒須くんはいた。
 物理的な距離は全く変わっていないのだけれど、これまでは、近いようで、どこか遠く感じていた。だが、今ようやく、私は黒須くんの隣にいるのだ、と確かに実感できた。
 私達は、互いに、初めてのお付き合いで。すぐに嫌なところを見付けて、幻滅してしまうかも知れない。喧嘩をして、傷付くかも知れない。それでも、黒須くんと一緒にいたかった。黒須くんでなければ、駄目だった。
 隣を見れば、黒須くんが私の肩に頭をのせている。私は黒須くんの手を握る指に力を込めた。
「黒須くん」
「何ですか?」
 名前を呼ぶと、黒須くんが顔を上げる。
「これから、よろしくね」
 改めてそう言った私に、黒須くんは、はい、と笑顔で頷いた。


 四月も、もう終わりに差し掛かっている。
 バスの車窓から見える桜の木々は、少しずつ花を開かせ、淡い薄紅色に枝を染めようとしていた。



君までの距離
chapter.01 君までの距離 - fin.