君までの距離 第三章 3


 翌日、日直だった私は日誌を書くのに手間取り、少し遅れて部室へ向かった。
 私が部室の前に着いた時、既に黒須くんは到着していて、扉にもたれて私を待っていた。
「ごめん、遅れちゃったわね」
「いえ、ほんの少し前に着いたところです」
 黒須くんは寄り掛かっていた扉から離れる。私は急いで鍵を開け、黒須くんと共に中へ入った。
「今日は、東雲くんは来なかったのね」
「……あ、はい……」
 部室に足を踏み入れ、何気なく東雲くんの名前を出した瞬間、黒須くんの表情が微かに曇った。だがそれは一瞬のことで、黒須くんはすぐに淡々と説明を付け足す。
「今日は部活があるから来られない、って言っていました」
「部活?」
 黒須くんは「はい」と頷く。
「東雲くんは、バスケットボール部の部員さんなんです」
「バスケ部?」
 私は、肩に掛けていた鞄を椅子の脇に下ろしながら首を捻った。
「東雲くん、男バスに所属しているの?」
「そう聞きました」
「文芸部と兼部するつもり、ってことなのかしら」
「そうみたいです」
 青藍では、複数の部活に入ることは認められている。私のクラスにも、部活の掛け持ちをしている生徒は、僅かだがいる。
 しかし、それより何より、私が引っ掛かったのはバスケットボール部という点だ。脳裏を、胸を張って明るく笑う、女子バスケットボール部主将・新橋涼子の姿が過った。
 東雲くんは、かなり可愛い部類に入る子だ。そしてバスケットボール部に所属しているという。そんな東雲くんを、涼子が知らないはずはない、放っておくはずはないであろう。何せ、何の接点もない黒須くんのことまで詳しく知っている様子だった涼子である。男女は違えど部活という繋がりがあれば、東雲くんとは直接の知り合いである可能性もある。
 私は立ったまま、はあ、と大きな溜め息を吐いて髪をかき上げた。その手を机について体重を掛け、項垂れる。そして、その状態で、しばし考えた。
 点と点が、薄い線で結ばれた気がした。東雲くんは何だか怪しい、とは思っていたが、その疑念は更に濃厚なものになってきた。
(私の勘違いかも知れないけれど)
 頭を垂れていた私は、気を取り直して顔を上げた。すると、黒須くんは着席せずに、心配そうに私を見つめていた。
「ああ、ごめん。部活、始めましょう」
 私は席に着いたが、黒須くんは物言いたげに私を見つめて立ったままだった。
「黒須くん?」
 座ったら、と言おうとした時、黒須くんの口が開かれた。
「ごめんなさい、先輩」
 突然の謝罪に、私は「え?」と声を漏らした。謝られる理由が全くわからず戸惑っていると、黒須くんは続ける。
「今日は僕しかいなくて……ごめんなさい」
 そう言って、心から申し訳なさそうにしゅんと俯く。
「何言っているの。何で謝るの?」
 私の問いに、黒須くんはしばらく口ごもっていたが、やがてぽつりと語った。
「……東雲くんとお話ししている先輩は、とても楽しそうでしたので。僕なんかといても、やっぱり、つまらないんじゃないかって……」
「嫌ね、そんなわけないでしょう?」
 私は椅子から立って黒須くんに歩み寄り、俯く黒須くんの頭にそっと手を伸ばした。
「土曜日のこと、忘れたの? 黒須くんが好きだ、って言ったでしょ」
 髪を撫でながら言うと、その時のことを思い出したのか、黒須くんは顔を赤らめてもじもじし出した。
「私は一緒にいて楽しくもない人を好きになんてならないわよ」
「でも」
「でも、じゃないの」
 こつん、と黒須くんの頭を小突いて、顔を覗き込む。
「ひょっとして、昨日やけに大人しかったのは、そんなことを気にしていたの?」
 黒須くんは黙っていた。図星なのであろう。
 しばらくの沈黙の後、黒須くんは呟いた。
「僕はずるいかも知れません。先輩のご好意を無にしているのは僕なのに……まだ答えを出せてもいないのに、東雲くんに先輩をとられてしまう気がして、怖くなったんです」
 黒須くんは、どんどん涙声になっていく。
「先輩の優しさに甘えてばかりで、ごめんなさい。でも、もう少し、あと少しだけ、時間をください。そうすれば、ちゃんと自分の気持ちがわかる気がするんです」
「いいわよ、ゆっくりで」
 すると、黒須くんは私の肩に額を寄せ、身体を寄り添わせてきた。
「え、黒須くん?」
 抱き締め合う寸前のような格好になり、私は困惑した。
「あの。少しだけ、こうさせていただいても、いいですか……?」
 と、不安げに尋ねられる。
「う、うん、いいよ」
 惚れた側である私は拒否するつもりもなく、戸惑いながらも頷いた。
「ありがとうございます」
 黒須くんは私に寄り掛かりながら、時折鼻を啜る。細い肩は震えていた。顔は私の肩に伏せられているので見えないが、泣いているのだろうか。
 私は黒須くんの頭を撫でた。本当は強く抱き締めたかったが、それはぐっと堪えた。
 今、黒須くんの気持ちは揺れているのだと、何となく、そう感じた。