君までの距離 第三章 2


 放課後、私は黒須くんより先に部室に着き、いつもの席に座って原稿を書き始めた。
 執筆を開始してしばらくすると、ノックの音がして、扉が開いた。小さく開いた扉の隙間に姿を現したのは、もちろん黒須くんである。
「いらっしゃい」
 顔を上げ、そう声を掛けた。黒須くんははにかむように微笑し、頭を下げる。
 しかし黒須くんは、なぜか部室に足を踏み入れようとはせず、扉に手を掛けたまま、もじもじしていた。
「どうしたの?」
 なかなか部室に入ってこないことを不思議に思って尋ねると、黒須くんの唇がそっと動いた。
「あの、先輩。僕のクラスの……、その、クラスの子が……」
 黒須くんはもごもごと言う。
「僕のクラスの男の子が。先輩にお話があるということで、こちらに来ているんですけれど……。今、大丈夫、でしょうか」
「え?」
 私はきょとんとした。黒須くんのクラスメイトが、私を訪ねてきたということか。一体何の用だろう。
「いいわ、入ってもらって」
 疑問はあったが、私は言った。黒須くんが不安げに縮こまっているので、早く返事をしなければ、と思ったのだ。
「は、はい、ありがとうございます。……東雲しののめくん、どうぞ」
 黒須くんは、私から見えない位置にいるのであろう誰かを呼び寄せた。私は原稿を折り畳み、背筋を伸ばして客人を待つ。すると。
「こんにちはー!」
 弾けるような声と共に、一人の少年が、部室に飛び込んできた。
「あなたが翼先輩ですか、初めまして!」
 彼は私を見付けると、そうはきはきと言った。黒須くんより背が高く、オレンジ色の髪が印象的な、活発そうな男の子だ。
「俺、友眞ゆうまっていいます。東雲友眞。よろしくお願いします!」
 明るく自己紹介をする彼に、私は戸惑いを覚えていた。見たこともなければ、名前を聞いたこともない、全く知らない子であった。
「ええ、よろしく。それで、私に用があるの? 何かしら」
 困惑を隠しながら問うと、彼はつかつかと部室の中を進んできた。私の前まで来て、がしりと私の手を掴む。
「……何?」
 触れられたことで、私の眉間には皺が寄った。彼は真っ直ぐ私を見つめて言う。
「俺、翼先輩のことが気になってるんです」
「は?」
 何だって?
「今朝、一目惚れしたんです! よければ俺と付き合ってください! お願いします!」
「ちょ……、ちょっと、待ちなさい」
 何だ、何だ。私は混乱した。
 どういうことだ、と、彼を連れてきた黒須くんを見れば、黒須くんは気まずそうに俯いている。
「あのね、君――」
 彼に話し掛けようとすると、彼は「東雲友眞です!」と遮った。
「東雲くんね。君、悪い冗談を言うのはやめなさい」
「冗談なんかじゃありません。好きなんです!」
 東雲くんは強く言うが、私はとても信じられなかった。たった今初めて顔を合わせた相手に好きだと言われても、疑ってしまうのは当然だろう。
 そして、それだけではなく、東雲くんの言葉にはどうにも違和感を覚える。東雲くんが初めに言ったことを思い出せば、明らかに何かがおかしい。そんな気がした。
「……東雲くん」
「はいっ」
 名前を呼んだだけで、東雲くんは嬉しそうに笑った。
「一目惚れをした、って言ったわね?」
「はい、そうです」
「どこで、私を見たの?」
「今朝、冬っちと歩いてるとこを見掛けて、それで、ですよ」
「ふゆ……ああ、黒須くんか」
 確か、黒須くんの下の名前は、千冬くんというのであった。
「二人は仲がいいの?」
 冬っち、なんて呼ばれているくらいだ。そう思って黒須くんに尋ねると、黒須くんは「え、えと」と漏らし、困ったような顔をした。
 返答に窮す黒須くんの代わりに、東雲くんが答える。
「いえ、ちゃんと話したことはないんですよ。二人で喋ったのは、今日が初めて」
 ねー、と、東雲くんは黒須くんに笑い掛ける。黒須くんは、遠慮がちにこくんと頷いた。
「それじゃ、話を戻すわね」
 私は一つ咳払いをして言った。
「折角だけれど、私には好きな人がいるから、応えられないわ。ごめんなさい」
「そうですか」
 私の答えに、東雲くんはちょっとしゅんとした顔をし、その後、すぐに明るく笑った。
「わかりました。でも、俺、諦めませんよ。好きになってもらえるまで、会いにきますから! 手始めに、今日は文芸部の活動に参加させてください」
 ――と、そんなことを言う。
「え?」
「駄目ですか? 文芸部は、見学とか、仮入部とか、できないんですか?」
「い、いや、できるけれど……」
「やった! じゃあ、時々仲間に入れてくださいよー。前から文芸部に興味あったんですよ、俺」
 東雲くんは甘えるように私の腕を取ってぶらぶらと揺らす。
「そう、ありがとう。でも、文芸部は静かに本を読むか、何か書くか、が活動なのよ。わかっている?」
「大丈夫です、大人しく本読みます。俺、いっつも皆から、騒がしい、って言われますけど、ちゃんと物静かにもなれるんですからっ」
 そう胸を張る東雲くん。
 なので、私は。
「じゃあ、いいわ。ゆっくりしていきなさい」
 と、許可を出した。部活の見学や参加は自由だ。文芸部自体に興味があるというのなら、追い返すわけにはいかない。
「えへへー、ありがとうございます」
 そう言って、東雲くんはその場でぴょんと跳ねた。
 そんな東雲くんを見て、私はちょっとだけ、可愛い、と思わなくもなかった。


 こうして、今日の部活には、東雲くんが参加することになった。
 私の前には普段通り黒須くんが座り、私の隣に、東雲くんが腰を下ろす。そして、私は執筆、黒須くんと東雲くんは読書を始めた。
 いつも、黒須くんと私は言葉を交わしながら活動するのだが、二人とも、新顔の東雲くんに戸惑ってしまっているようで、どちらからも声が発せられることはなかった。
 部室に何となく気まずい空気が流れていた、そんな時。
「翼先輩、翼せんぱーい」
 隣に座る東雲くんが、私の肩をちょんちょんと叩いた。
「何?」
「コウバイってどういう意味ですか?」
「コウバイ?」
 購買? 紅梅? 首を捻る私に、東雲くんは開かれたページの一部を指差す。覗き込むと、そこには「勾配」と書いてあった。
「勾配は、傾きの程度。坂とか、斜面のことよ」
「へー。あ、じゃ、これは――」
 東雲くんは次々に、単語の意味や漢字の読みを質問してくる。初めは一つ一つ答えていた私だが、きりがなく、このままでは私の執筆が進まないので、鞄から辞書を取り出し、東雲くんに差し出した。
「辞書貸すから。調べながら読みなさい」
「えへへ、すみません。ありがとうございます」
 辞書を受け取り、東雲くんはにっこりと笑う。東雲くんの笑顔には、憎めない愛らしさがあった。それを見て、私は思う。東雲くんは、何となく仔犬っぽい。まとわりつかれるようでちょっと鬱陶しく感じたとしても、その懐っこい笑顔を見せられると、仕方ないな、と笑みが溢れてしまう。
 タイプは全く違うが、黒須くんと同じく、可愛いと表現するのが最も似合う子だ。
 私は、辞書を捲りながら本を読み進めていく東雲くんから、自分の原稿に目を戻す。その途中、注がれる視線に気が付いて、顔をそちらに向けた。
 その視線の主は、黒須くんだった。前に座る黒須くんが、私をじっと見つめていた。
 私と目が合うと、黒須くんはぎこちなく俯き、読書に戻った。
(――?)
 私は首を傾げる。
 ほんの一瞬見つめ合った黒須くんの瞳は、寂しげな色を帯びていたように見えた。

◆◇◆◇◆

 普段より長く感じた部活の時間も終わりを迎え、私達は帰りの支度を始めた。
 本を棚に戻し、鞄を肩に掛けた東雲くんが、私に笑い掛ける。
「文芸部、楽しかったです。俺、普段は漫画ばっか読んでるんですけど、小説もいいですね」
「そう、嬉しいわ」
「入部はもうちょっと考えてみます。また時々見学させてくださいね!」
「ええ」
 頷きながら、私は思った。もしかしたら、いずれ、東雲くんは文芸部に入部することになるのかも知れない。
 いい子だと思う。明るく、ノリは軽いが、ちゃんと真面目さもある。東雲くんが入れば、きっと楽しく、賑やかにやっていけるだろう。
 しかし。
「…………」
 先程から俯きがちで、どことなくしょんぼりとし、いつも以上に大人しくなってしまっている黒須くんが気になった。黒須くんは、東雲くんが苦手なのだろうか。
「翼先輩、途中まで一緒に帰りましょ!」
 そんな黒須くんとは対照的な空気を纏っている東雲くんが言った。
「いいけれど」
 私は頷いた後、黒須くんに目を向けた。
「黒須くんは」
「あ……僕は一人で帰りますので、お気になさらないでください。お二人で、どうぞ」
 黒須くんはそう言うが、三人で帰ることを嫌がっているというより、東雲くんと私に気を遣って、遠慮しているように見えた。
 すると、東雲くんは。
「何で? 冬っちも一緒に帰ろうよ」
 と、黒須くんを誘った。
「でも……」
「ほらほら、三人で帰ろー」
 渋る黒須くんの肩に右腕を回し、空いた左手を私の腕に絡めて歩き出す東雲くん。黒須くんと私は東雲くんに引きずられるように部室を出た。


 揃って部室棟を出た私達は、校舎からバス停までの道を、東雲くんの話を聞きながら、ゆっくりと歩いた。
「昔は結構、小説も読んだんですけどね」
「そうなの?」
「シャーロック・ホームズが大好きでした。久し振りに読み返してみようかな」
「ああ……私も好きだったわ」
「面白いですよね! 文芸部に入ったら、また昔みたいに色々読みたいです」
 東雲くんの話に相槌を打ち、私は自然と笑顔になっていた。東雲くんは楽しそうに語るから、聞いているこちらも楽しかった。だが、その間も、東雲くんの肩越しに見える黒須くんがずっと下を向いているのが、気掛かりだった。
「じゃ、俺はここでお別れですね。翼先輩、冬っち、また今度!」
 校門前のバス停に到着すると、東雲くんは足を止めた黒須くんと私に大きく手を振って、バス停から離れていった。
 黒須くんが、去っていく東雲くんに会釈をする。私も「またね」と手を振った。
 東雲くんの背中が遠くなり、やがて、見えなくなった。私は黒須くんと並んで立ち、次に来るバスを待つ。
 東雲くんがいなくなっても尚、黒須くんは足元を見つめていた。何か話してあげなければとは思うのだが、適当な話題が見付からず、私もまた、無言だった。
「東雲くんは、格好いいですね」
 不意に、黒須くんが小さく呟いた。
「格好いい?」
「はい。明るくて、積極的で。……僕とは正反対です」
 黒須くんは俯いたまま、自虐的に微笑する。
「羨ましいです」
 そう言う黒須くんの横顔があまりに悲しげで、思いつめたものに見え、私は、何も言うことができなかった。