君までの距離 第三章 １
時の流れは早いもので、あっと言う間に日曜が過ぎ去り、月曜日はやってきた。
今日の放課後、部室で黒須くんと顔を合わせた時、ちゃんと今まで通りの私でいられるだろうか。そう不安に思っていたら、私はいつもより三十分早く、朝の支度を済ませてしまった。
この余った三十分を自宅でぐだぐだと過ごすのも勿体ない気がしたので、一本早いバスに乗って学校へ行こうと決め、家を出た。
外は快晴で、気持ちのいい青空が広がっていた。
一昨日の夕方に黒須くんと歩いた自宅からバス停までの道を、今日は一人で逆行する。
私は重い溜め息を吐いた。
なぜ、好きだと言ってしまったのだろう。堪えることができていれば、このように思い悩むこともなく、黒須くんに会える今日に心踊らせていたに違いないのに。
知り合ってから一週間も経たずに愛を告げられたら、戸惑うのは当たり前だ。私は焦り、先走り過ぎたのだと、今になってわかる。
けれど、あの時。不意に、親しい先輩後輩、という関係だけでは、物足りなくなってしまった。黒須くんを、誰にも渡したくないと思ってしまった。黒須くんが私だけを見ているうちに、私のものにしてしまいたかった。これが独占欲というものだろうか。
文芸部の先輩に恋をしていた二年前は、こんなことはなかった。ただ、先輩がそこにいてくれればよくて、特別な存在になりたいと思いはしなかった。どちらが本当の恋のあり方なのか、私にはわからない。
一歩一歩、いつもよりゆっくりと地面を踏み締めながら、私は、恋って何だろう、そんなことを考えた。
停留所に着き、ベンチに座って五分ほど待つと、いつも乗るバスと同じ系統番号の書かれたバスが到着した。
プシュッと音を立てて乗り口を開いたバスのステップに足を掛け、小さな穴から吐き出された乗車券を受け取る。
車内は、混んではいないが、がらがらに空いているわけでもない。ぽつりぽつりとある空席のどこかに座ろうと、後方の座席を見渡すと。
「……！」
目に付いた人の姿に、私はぎょっとした。
二人席に、黒須くんが一人で座っていたのだ。
途端に、後悔が押し寄せた。思えば、黒須くんと私は同じ系統のバスに乗って通学しているはずなのに、これまで、登校時に顔を合わせることは一度もなかった。それは、黒須くんがいつも、私が乗るバスの一本前のバスに乗っていたためだったのだろう。少し考えれば予想できたことだ。放課後へ向けての心の準備もできていない今、本人に会ってしまうことは、何より避けたい状況である。
動悸が激しくなった。平静を保てる自信など、なかった。
しかし幸いなことに、黒須くんは膝の上で開いた本に目を落としていて、私が乗車したことには気が付いていない。
私は迷った。知らない振りをして、離れた席に座ってしまった方がいいのではないか、という考えが頭を過ったのだ。
（いや――）
すぐに思い直し、首を振る。存在に気付いていながら、わざと見過ごす。そんなことをしたら、黒須くんと私の間に、確実に溝ができてしまうだろう。
私は小さく拳を握って気合いを入れてから、黒須くんの座る座席に歩み寄り、細い肩をそっと叩いた。
「黒須くん」
「え？ あ……」
本のページから顔を上げた黒須くんは、私を見ると、驚いたように口を開け、目を見開いた。先輩、と呟いた黒須くんの表情が微かに張り詰めたのを、私は見逃さなかった。
「おはよう」
私は「今まで通り」を心掛け、にっこりと微笑んだ。
「おはようございます、先輩」
一瞬緊張を見せたのは確かだが、挨拶を返す黒須くんは、口元を綻ばせ、以前と同じ懐っこい笑みを浮かべる。
よかった、今まで通りのやり取りができた。私はほっと安堵した。
「隣に座ってもいい？」
尋ねると、黒須くんは頷き、窓際に席をつめる。
「今朝は早く目が覚めてね」
隣に腰を下ろしながら、私は黒須くんに話し掛けた。
「普段は次のバスに乗るんだけど、今日は一本前のに乗ろうと思って。今まで、朝は黒須くんと会わないな、って思っていたけれど、黒須くんはこのバスに乗ってたのね」
「はい。次のバスに合わせると、万が一寝坊などをして乗り遅れたら、遅刻してしまうので。早めに学校に着くようにしています」
「偉いわね」
そう言葉を交わしているうちに、私の不安は薄らぎ、緊張はほぐれていった。
土曜日のことの気まずさなど忘れられるほど、黒須くんと話すことが楽しいと思えた。黒須くんのささやくような優しい声で紡がれる丁寧な言葉を、私の耳は心地よく受け取っていた。
だが。
「あの、先輩。一つ、いいですか？」
「うん、何？」
「土曜日のこと、なんですけど……」
黒須くんが切り出した話に、ぎくりとした。
「その……すみませんでした。折角のご好意に、すぐにお応えできなくて……ごめんなさい」
黒須くんはしゅんと俯き、小声で言う。
「いいの、気にしないで。ゆっくり考えてくれればいいわ。その結果、断ることに決めようと、気に病まなくていいからね」
私は動揺を悟られないよう、淡々と語った。
「はい、……でも」
黒須くんは上目で私を窺い、少しだけ間を置いてからこう言った。
「今、先輩に会えて、とても嬉しいんです。これが恋なのかな……なんて、思ったりもします」
――そんな可愛いことを言うのは、ずるい。また、期待させられてしまったではないか。
黒須くんは自覚があるのかないのか、ほんのりと染まった顔で、甘くはにかみながら私を見つめる。
「……そういうことを言うのをやめなさい、っていうのよ」
私は、前髪が覆い隠す黒須くんの額を、人差し指でぴんと弾いた。
◆◇◆◇◆
学校の前に到着したバスを降りた黒須くんと私は、校舎の中でも並んで歩き、一年生の教室のある二階で足を止め、向き合った。
「また放課後にね」
「はい。部活、楽しみにしています」
黒須くんはふんわりと優しく微笑み、肩の辺りで小さく手を振って、教室が並ぶ廊下へと歩き出していった。
華奢な後ろ姿は、一年Ｃ組の扉の前で止まり、こちらを振り返った。私に向けてぺこりと会釈をしてから、教室の中に吸い込まれていく。私はそれを見届けて、また階段を上っていった。
その時。
「おっはー、翼ぁ！」
背後から声を掛けられたかと思うと、振り返る間もなく、誰かが背中に抱き付いてきた。その衝撃に、私は軽くよろけた。
「――涼子？」
私は前を向いたまま、その人物と思われる人の名を呼んだ。振り向かなくとも、声を聞けば、いや、この行動だけで誰だかわかる。私にこんなことをする者など、新橋涼子、ただ一人しか心当たりがない。
「翼がこの時間に来てるの珍しいわね！ おっはよーっす！」
予想通りその人は涼子で、私に抱き付いたまま、耳元で騒がしく挨拶をする。
「そうね、おはよう。……とりあえず、離れなさい」
階段の端で絡んでいる私達の横を、次々に登校してくる生徒達が、訝しげに眺めながら通り過ぎていく。見せ物になり続けるのはご免である。私がやんわりと、しかしはっきりと告げると、涼子は愉快そうに笑って私の背中から離れ、ぴょこんと前に回り込んできた。
「涼子は、朝練？」
尋ねると、涼子は、そうよ、と頷く。何でも、「今年の女バスは本気なの」とのことである。
「ってねー、私のことはいいのよ。そ、れ、よ、り」
一音一音途切れさせ、涼子が唇の端を上げる。何だか嫌な予感がした。
「見てたわよぅ。何よ、黒須と仲睦まじく登校してきてっ」
涼子は、うりゃうりゃ、と言って私を肘でつついてくる。やっぱりそれか、と思った。黒須くんと私とのことに、涼子が食い付いてこないわけがない。
「こないだ会った時から、黒須は翼と相性よさげだなーとは思ってたけど。見せ付けてくれるわね、ラブラブじゃないの」
「バスが一緒だっただけよ」
なぜか浮かれている涼子に、私はそう言った。何を勘違いして興奮しているのだ。
しかし、涼子は。
「またまた、すっとぼけて。土曜日、公園でも二人っきりで楽しそうに歩いてたじゃない。それで特別じゃない、なんて、この私には通用しないわよ」
その言葉に、私は仰天した。どうして涼子がそれを知っている。
「な、何でそんなこと……！」
私の驚き様に、涼子は満足げに「ふふん」と笑う。
「ふふん、じゃないわよ。どういうこと？ まさか涼子、その時どこかで見てたっていうの？」
「そうよーん。私もうちの弟を連れていってたんだけど、そしたら翼がいたわけじゃない？ 声掛けようかと思ったら、隣に黒須見付けて、涼子さん、びっくりしちゃったわよ」
自分で自分を「涼子さん」。絶対に面白がっている。
「一週間足らずで、あの黒須と休日デートなんてできる仲になったとはね。意外と手が早いんだから、翼ってば。っていうか、まず、翼が一年を相手にするとは思わなかったわぁ」
「誤解だわ。約束して出掛けたわけじゃないのよ」
私は土曜日の出来事をかいつまんで話した。黒須くんが絡まれていて、それを助けたこと。すぐ別れてまた何かあっては大変だから、その後、行動を共にしたこと。特別なことなど何もないのだ、と。家に連れ込んだとか、告白したとか、それはもちろん口には出さない。
「少なくとも、黒須くんと私は、涼子が期待してるような仲じゃないわ。黒須くんは私のことなんて何とも思っていないもの」
自分で言っていながら、その言葉はさっくりと胸に刺さった。黒須くんは何とも思っていない――それはやはり少し切ない。
「ふーん、黒須くんは、ね？」
含みを持たせて言う涼子。しまった、と私は思う。涼子は恋愛事の機微に鋭いのだ。不用意に下手なことを言えやしない。
「そんなことより、いつまでこんな場所で話し込んでいるつもりなの。教室行くわよ、涼子」
私は冷ややかに言い、目の前に立ち塞がる涼子の脇を抜け、先へ進んだ。すると涼子は意外にも素直に、それもそうね、と私に続いた。
三階の、三年Ｃ組の教室に入る。私が窓際後方の席に着くと、涼子も自分の席――私の席のすぐ前である――に座った。涼子はぐるりと身体を回してこちらを振り返り、「さっきのことだけど」と話を再開する。
「まどろっこしいから、率直に聞くわ。翼、あんた、黒須が好きでしょ？」
「……どうしてすぐそういう発想になるのかわからないわ」
私は溜め息を吐いてみせたが、涼子は続ける。
「こないだのバス停の前でも、今日の登校シーンでも、土曜日の公園でも。黒須といる翼は、凄く幸せそうに見えたの。人様の恋を眺め続けてきた涼子さんの目は誤魔化せないわよ。好きなんでしょ？」
素直に言いなさいよ、と迫る涼子に、私は肯定も否定もせず、沈黙で答えた。それだけで、長い付き合いの涼子には伝わるだろうと思った。
私の気持ちに気付いたのであろう涼子は腕組みをし、何度も深く頷いた。
「やっぱりねえ。でも本当、信じらんないところはあるわね。あんたは年上好きなんだとばっかり思ってたし。黒須は、朽葉さんとは全然タイプ違うじゃない」
朽葉さん。文芸部で共に活動した先輩の名前を久し振りに聞き、少しだけドキリとしたが、それは以前のようなときめきではなかった。自分の感情の変化に気付き、今の私の想いは黒須くんに向いているのだ、と確かに感じた。
「別に私、男性をタイプに分けて見てないもの。そりゃ、朽葉先輩と黒須くんは全然違うわ。でも、先輩に似た人なんて求めていないし。黒須くんは……そうね、凄く優しくて、いい子だったから。だから、気が付いたら、ね」
そう。気が付けば、堪らなく好きになっていた。ふわふわと甘くて優しい、女の子のように可愛らしい男の子。
「ふうん、そう」
涼子は頬杖をついて微笑む。
「翼に想い合う人ができたのは嬉しいけど、ちょっと寂しいし、羨ましいなーって思うわ。置いていかれちゃうわね、私」
しみじみと呟く涼子に、私は「ちょっと待ちなさい」とストップをかけた。
「涼子、誤解していない？ さっきも言ったけれど、黒須くんと私は恋人じゃないわ。黒須くんは、私のことなんて想ってくれていないわよ。私の一方通行」
それを聞いた涼子は、目を瞬かせた。
「嘘、あれ本当だったの？ 誤魔化してるだけだと思ってた」
「違うわよ」
「じゃ、怖がってないで告白しちゃいなさいよ。黒須だって、明らかに翼のこと好きじゃない」
「いや、違うの。一応、好きだってことは伝えたには伝えたんだけれど――」
この先を涼子に言うべきか言わざるべきか迷い、口ごもったが、結局、私は口に出した。
「私のことは好きだけれど、まだ、恋とかはよくわからない、って。断られたわ」
「えっ、何それ。奥手にも程があるわ」
涼子が目を剥く。
「それか、はっきりとは断りづらくて、そう言って濁したのかな、とも思うのよね」
「そんなはずないでしょ。黒須はどう見ても翼のこと好きよ。黒須はさぁ、人形みたいに可愛い容姿してるじゃない？ クラスの男子からは、親しみづらくて遠ざけられてるとこがあってね。とにかく常に一人でいるのよ。だから、いっつも何かしゅんとしてるの。あんなに楽しそうに笑ってるの、翼の前くらいなの。そんな翼を好きじゃないわけない、っての」
「……詳しいわね」
拳を握って熱弁した涼子は、その後、「でも、ま」と続けた。
「黒須はきっと、デリケートな子なんでしょ。突然でびっくりして、すぐには答えが出せない、ってだけじゃない？ ゆっくり待っていてあげたらいいわよ」
「そうね」
私は頷き、それでこの話は終わったつもりだったのだが、涼子は顎に手を当て、何やら思案を始めた。
「でも、それじゃ永遠に進展しない可能性もあるわよねー……。よし、ここは愛の伝道師・涼子さんが一肌脱いであげましょう」
「何もしなくていいわよ」
慌てて止めた。涼子に何かをされ、それによって黒須くんと気まずくなって、今の関係がぎくしゃくしたりしては困る。
しかし。
「まあまあ、任せときなさい。大船に乗ったつもりで！」
涼子は拳で胸を叩いて笑った。
これは、もう何を言っても耳に入れてはもらえなさそうである。