君までの距離 第二章 5


 私達はデパートでウィンドウ・ショッピングをしたり、公園に行って開花前の桜を眺めたりと、のんびりと土曜の午後を楽しんだ。
 公園では、黒須くんは枝に蕾を見付けるとその都度嬉しそうに私に知らせるのだった。その姿は幼い子供のように無邪気で、微笑ましかった。
 広い公園をゆったりとした足取りで一周する頃には日も暮れ始め、帰宅するため、黒須くんと私は同じバスに乗車した。
 二人席に並んで座った途端、黒須くんは目をとろんとさせ、少し眠ってもいいですか、と言って瞼を閉じた。沢山歩いて疲れたのかも知れない。今では、私の肩に寄り掛かってすやすやと寝息を立てている。
 私は肩に小さな重みを感じながら、窓の外を流れる見慣れた景色を眺めていた。
「ん……」
 そう声がして、黒須くんに目をやる。
 黒須くんは元々童顔だが、寝顔はもっと幼くて、まるで天使と見紛うような顔がそこにある。
(可愛い)
 私は黒須くんの頭を撫でた。黒須くんのさらさらとした黒髪は、柔らかく滑らかで指通りがいいので、思わず触りたくなるのだ。
 黒須くんの髪に触れながら、それにしても、と思う。
 私が後輩を好きになるなんて、ついこの間までは考えもしなかった。
 だって、私は高校に入ってからはずっと、今は卒業してしまった文芸部の先輩のことが好きだったのだ。子供の頃は五歳年上の従兄が好きだったし、別に年下が趣味というわけではない。
 それが、先輩や従兄とは似ても似つかない、愛らしい男の子に心を奪われるとは。
 不思議なものだな、と思っていると、バスは私の家の最寄りの停留所に近付いてきた。アナウンスが、次はA町入口、と停留所の名前を告げたので、私は降車ボタンを押した。
 気持ちよさそうに眠る黒須くんを起こすのは可哀想だが、黙って降りるわけにもいかない。私は黒須くんの肩を揺すった。
「黒須くん、黒須くん」
「ん……、んー……」
「私、そろそろ降りるわよ。起きて」
 黒須くんはうっすらと目を開け、眩しそうに瞬きを繰り返した。そして。
「すみません。ぐっすり寝てしまいました」
 目の覚めた黒須くんは、あくびを噛み殺しながら言った。
「疲れた?」
「いえ、大丈夫です、楽しかったですから……」
 そう言う黒須くんはまだ呂律が回っておらず、語尾がもにょもにょと消える。
 やがて、バスが停車した。私はカードと乗車券を手に、席を立つ。
「またね。今日はありがとう」
 すると黒須くんは、眠そうな目を擦りながら、「僕も降ります」と言って通路に出てきた。
「何言ってるの。黒須くんの家、まだ先でしょ? ここで降りたら駄目でしょう」
 寝惚けて間違えているのかと思ったが、黒須くんは、いえ、と首を振る。
「お家まで、送らせていただきたくて。もう薄暗いですし、女性一人で歩くのは危ないですよ」
 そんなことを言われるとは思わなくて、びっくりした。
「いや、大丈夫よ。まだ七時前だもの」
「いいえ、送らせてください」
 黒須くんは頑として譲らない。
 思えば黒須くんは、何というか、愛らしい容姿・性格・仕草に反して、男の子としてのプライドのようなものが高い気がする。ファミリーレストランで「次は僕に払わせてください」と言ったのと、今の「送らせてください」は、そういう意味で共通している。小さな紳士なのである。
 しかし。夜道を一人で歩かせるのが危険なのは、私よりも寧ろ黒須くんの方であるように思えた。何と言ったって、こんなに可愛いのだから。
 そうこうしている間にも、私達は降車するお客さんに押し流されるように降り口まで進んでいき、とうとう黒須くんと共に運賃を払って降りてしまった。
「……それとも、ご迷惑でしたか?」
 地面に降り立ってから、黒須くんはそう言ってしゅんとなった。
「迷惑ってわけじゃ……ないけれど」
 ただ、わざわざ途中下車してもらうのが申し訳ないだけだ。となれば、降りてしまったものは、もう仕方がない。バスも既に次の停留所へ向けて発車してしまった後であるし。
「じゃあ……送ってもらうわ。よろしく」
 私が言うと、黒須くんは「ありがとうございます」と笑顔を見せた。

◆◇◆◇◆

 黒須くんと話をしながら歩く、停留所から家までの距離は、あっと言う間だった。いつもはバスを降りてからのこの道は、まだ歩かなければならないのか、とちょっと憂鬱なものなのだが、黒須くんといると苦にならなかった。
 小さなアパートの前で私が足を止めると、黒須くんも立ち止まった。
「家、ここだから。送ってくれてありがとう」
「いえ」
 黒須くんは微笑む。
「今日はとても楽しかったです。付き合ってくださって、ありがとうございました」
「私こそ。よかったら、また一緒にどこか行きましょう」
「いいんですか?」
「黒須くんが嫌じゃなければ、ね」
「嫌なわけないです。嬉しいです」
 本当に嬉しそうにしてくれるから、私も嬉しい。
「それじゃ、先輩、さようなら。また、学校で」
 そう言って踵を返した黒須くんを、私は思わず呼び止めた。
「あ、待って、黒須くん」
「何ですか?」
 黒須くんは振り返って首を傾げる。そんな黒須くんに、私はこう言った。
「よかったら、ちょっと、上がっていかない?」
「え?」
「次のバスが来るまで結構時間あるでしょう? ずっと外で待ってるより、少し私の家で時間潰してから行ったらいいんじゃないかな、って。どうかな」
 私の提案に、黒須くんは目を瞬かせた。
「え……、でも……。お家の方のご迷惑になるでしょうし……」
「大丈夫。今、家には誰もいないから」
 言いながら、頭の中で、ちょっと待てと警報が鳴る。これではまるで、『誘っている』みたいではないか。そういう意味で。
「誰も、いらっしゃらない……?」
 どう受け止めたかはわからないが、黒須くんは少しだけ顔を赤くした。
「いや、変な意味じゃないわよ。捕って食おうなんてことは思ってないから安心して」
 咄嗟に言い訳をしたが、言った分だけ怪しさが増した。そういうつもりではなかったのだが、食う、なんて表現を使ったのがまずかったか。実際、黒須くんは俯き、「わかってます」と言いながらも真っ赤になってしまった。
「じゃあ……その。少し、お邪魔させていただいてもいいですか? すぐ帰りますので……少しだけ」
 黒須くんは躊躇いがちに、小声で言う。
「う、うん。どうぞ」
 私の一言のせいで変な空気になったものの、私は頷いて、黒須くんを自宅へと導いた。黒須くんに限って、狼藉を働くことはないだろう。
「入って」
 鍵を開け、暗い玄関の中、手探りで電気を点けてから、黒須くんを呼び寄せる。
「お邪魔します」
「居間がいい? それとも私の部屋に来る?」
「あ……ええと、どちらでも」
「じゃ、部屋で。本もあるし、居間よりは退屈しないはずだわ。ちょっと狭いけれど」
 靴を脱いで、私は黒須くんを伴って自室に向かった。親戚以外の男の子を家に上げたことがないので、少しどきどきする。
「ここが私の部屋ね」
「はい。失礼します」
 私の部屋に入った黒須くんは、ぐるりと室内を見渡して、「素敵なお部屋ですね」と褒めた。
「そう? ありがとう」
 しかし私の部屋は、お世辞にも男の子が想像して憧れるような、若い女のそれではない。
 焦げ茶色で統一された飾り気のない家具に、アイボリーの無地の壁紙。青の濃淡がベースのタータンチェックのカーテンは、父から譲られたものだ。そして所狭しと本ばかりが並んでいて、可愛らしいアイテムなど何一つないのである。
「黒須くんって、ココアは好き?」
 私はクローゼットを開け、ジャケットを脱いでハンガーに掛けながら、黒須くんにそう尋ねた。
「ココア……ですか? はい、大好きです」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
 ジャケットをクローゼットの中に吊るし、部屋を出ると。
「……あっ! い、いえっ、そういう意味じゃ……、あの、お構いなくっ」
 黒須くんの慌てたような声が追い掛けてきた。どうやら、私の、ココアは好きかという問いは単なる雑談だと思って深く考えずに好きだと答えたが、飲み物を出すために好みを尋ねたということに気付いてハッとしたようだ。
 全く、可愛いんだから。


 台所で二人分のココアを作って部屋に戻ると、黒須くんは部屋の中央にある小さなテーブルの前にちょこんと正座をして待っていた。
「はい、ココア。ミルクと砂糖、勝手に入れちゃったけど、よかった?」
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
「そんな固くならないで。楽に座っていいわよ」
「はい」
 頷きはしたが、黒須くんは足を崩そうとはせず、正座したままマグカップを手にした。
 黒須くんは両手でマグカップを持ち、時折茶色い水面に息を吹き掛けて中身を冷ましながら、少しずつココアを飲んでいく。冷たいままのミルクを入れてあるので、それほど熱くはないはずなのだが。猫舌なのだろうか。
 私は黒須くんの向かいに座り、自分用に甘さ控えめで作ったココアをぐびぐびと飲みつつ黒須くんを見ていた。
「何だか緊張してしまいます」
 私がココアを飲み干した頃、半分くらい中身の減ったカップをテーブルに置いた黒須くんは、首筋を掻いて呟いた。
「どうして?」
「女性のお部屋にお邪魔するの、初めてなので」
 照れ臭そうに、もじもじと身体を小さく揺らしている黒須くんは、可愛らしい。
「何か、悪いわね。初めて入る女の部屋がこんな殺風景で」
「いえ、そんな。素敵なお部屋ですよ」
「そうかな」
「はい、とても」
「ありがとう」
 それから、私達はしばし無言になった。
 気まずい間を埋めるように、黒須くんは置いたばかりのマグカップに再び手を伸ばした。しかし大分温くなったココアはさほど時間を要さず空になったようで、することを失った黒須くんは、また目を泳がせてそわそわし始める。
 いつもは会話が途切れると私から話題を振っているのだが、落ち着きのない黒須くんをもっと見ていたくて、私はあえて黙っていることにした。
「あ、あの」
 沈黙に耐えられなくなったのか、黒須くんは意を決したように口を開いた。
「あの、その……そう、本。本が、沢山ありますね」
 そう切り出されたが、その台詞は聞いていると笑ってしまいそうなほど棒読みだった。
「見てもいいわよ、本棚」
 ガチガチの棒読みには特に触れないであげて、私は部屋の隅にある大きな本棚を指差した。
 その言葉に素直に従い、黒須くんが静かに立ち上がる。私も腰を上げて黒須くんの隣に並び、見慣れた本棚を眺めた。
「あ、この本、僕も持っています」
 本を前にした黒須くんは少しリラックスしたようで、笑みを浮かべて新書の背表紙を指差す。
「絵本とかも、沢山あるんですね」
 本棚の一角、絵本や児童文学の並ぶ場所を見付けて、黒須くんが興味を示した。
「ああ。私、児童書が好きだから、童話とか絵本とか、面白そうなのがあるとつい買っちゃうの」
 おかしいかな、と笑うと、黒須くんは「いえ、素敵です」と柔らかく微笑んだ。
 楽しそうに一つ一つ本を眺める黒須くんの横顔を見ているうちに、私の胸には愛しさが溢れてきた。
 今日、一緒に過ごしたことで、はっきりとわかったことがある。私は本当に、黒須くんのことが好きだった。
 まだ、黒須くんを知ってから一週間と経っていない。なのにこんなにも恋焦がれているなんて、自分でも信じられないけれど。綺麗な顔も、柔らかな髪も、愛らしい声も、全てが恋しい。素直で純粋で、恋愛事にはちょっと疎くて鈍感な黒須くんが、堪らなく愛おしい。
 黒須くんに触れたい。
 黒須くんをこの腕で抱き締めたい。
 ――そんな感情に駆られ、気が付けば私は、黒須くんに腕を回し、その華奢な身体を抱き寄せていた。
「え……っ、せ、先輩……?」
 私の腕の中で、黒須くんが戸惑ったように小さな声を上げる。
「あ、あの……。どう、したんですか……?」
 驚いたのだろう、肩を硬く強張らせた黒須くんの身体は、細くて、小さくて。強く力を込めて抱き締めれば、壊れてしまいそうだった。
「黒須くん……」
 口にしてはいけない言葉が喉元でつっかえて、辛うじて止まっている。だが、堪えられそうになかった。愛しさに、苦しいほど胸が満たされていた。
「……好き……」
 とうとう私の口から零れ落ちた、その言葉。
「私、黒須くんのことが好き」
 もう一度、繰り返す。黒須くんに伝えているというより、自分の心を確認しているような感覚だった。
「え、えっと……、僕も、先輩が好きですよ」
 黒須くんは言ったが、ぬか喜びしてはいけない。純な黒須くんは、きっと私の『好き』の意味を正しく受け止めていないのだろう。
「違うの」
 私は、身体を離して黒須くんを見つめ、黒須くんの頬に口付けた。唇に、限りなく近い位置に。優しく触れるだけのキスを。
「私の『好き』は、こういう意味」
「え……」
 唇を離すと、黒須くんは目を見開いて私を見た。そして、今の口付けの感触を確かめるように指先を頬にあてがい、顔を赤く染めて俯いた。
 もう引き返せない。私は覚悟を決めて言った。
「私は黒須くんが好き。この気持ち、迷惑?」
「迷惑、だなんて……」
 ゆっくりと、首が横に振られる。だが、伏せられた顔には困惑が表れていた。
 そして、黒須くんは言う。
「僕も、先輩のこと、好きです。こんなに誰かを好きになったこと、ありません。ですから、先輩のお気持ちは、凄く嬉しいです。……でも……」
『でも』。その接続詞に続く言葉を先読みした私の胸は、ずきりと痛んだ。
「僕……まだ、恋とか、よくわからなくて……。先輩のことは大好きですし、ずっと側にいたいです。けど、これが恋なのかは……、今はまだ……」
 懸命に言葉を探しながら話す黒須くんに、私は。
「ごめん」
 そう、謝った。黒須くんが、今にも泣き出してしまいそうなほど、私の告白に追いつめられているのがわかったからだ。
「困らせてごめん。もういいよ。何も、無理に付き合ってくれなんて言ってないの。そんな顔しないで」
 私は小刻みに震える黒須くんの肩をそっと抱いた。黒須くんは「違うんです」と首を振る。
「誤解しないでください。僕、先輩が好きです。お付き合いできないわけじゃないんです。でも、でも……」
「大丈夫、わかったから。突然こんなこと言った私が悪いわ、ごめん」
 黒須くんは、純真で真面目だから。本当に好きかどうかわからない相手と軽々しく付き合うなんてことはできないのだろう。もしかしたら、男女の付き合いに対する不安もあるのかも知れない。どちらにしても、真剣に考えて言ってくれているのだということはわかった。
「私は確かに黒須くんが好きだけれど。恋愛の意味を抜きにしても、黒須くんのこと、大事に思ってる。だから、今後もこれまで通りでいてくれないかな」
 私がそう言ったのは、黒須くんへの気遣いというより、寧ろ、自分のためだった。これをきっかけに、黒須くんとの関係が崩れてしまうことを恐れたのだ。
「いいんですか……?」
 顔を上げた黒須くんの瞳は潤んでいた。
「黒須くんは大切な後輩、それに変わりはないから。これからも、今のことは気にしないで、仲良くしてくれる?」
「あ……ありがとうございます」
 黒須くんはぽろぽろと涙を溢して何度も頷いた。私は、「泣かないで」と、黒須くんの頭を優しく撫でた。
 告白は断る方もダメージを受ける、とは聞くが、こんなに思いつめさせてしまうなんて。申し訳ないことをしてしまった。
「ごめんなさい……、本当に、ごめんなさい」
 黒須くんは、譫言のように、「ごめんなさい」を繰り返し続けていた。

◆◇◆◇◆

 あと十分ほどでバスが来る。黒須くんがそのバスに乗るにはそろそろ家を出なければならない時間だ。
 私は黒須くんと共に外に出た。外では既に日が落ち、街灯がぽつぽつと灯っていた。
「先輩」
 足先でとんとんと地面を叩き、靴を履き慣らしながら、黒須くんが私を呼ぶ。
「僕、これから、ゆっくり……考えてみます。先輩を、その、そういう想いで好きなのかどうか。今はまだはっきりとは言えないですけど、きっと僕も、先輩のこと――」
 黒須くんは足元を見ていた顔をそろりと上げ、私を窺う。街灯に照らされたその瞳は、うさぎのように赤い。
「ですから、少しだけ、時間をいただけませんか……?」
 誰の耳にも届かずに闇に溶けてしまいそうな、不安げで頼りないか細い声で、黒須くんはそう尋ねてきた。
「うん。ありがとう」
 私は微笑んだ。上手く笑えているか少し不安になったが、黒須くんは安心した顔で微笑み返してくれたので、成功しているのだろう。
「じゃあ、また、月曜日に」
「またね。部室で待っているわ」
 さようなら、と少々ぎこちない微笑を残して、黒須くんは去っていった。
 姿が見えなくなるまで黒須くんを見送ってから、私はアパートに戻った。鍵を掛けずに出てきた玄関で靴を脱いで、真っ直ぐ自室に向かう。
 自室に入り、背中で扉を閉めた途端、私はふっと糸が切れた人形のようにその場に膝を付いた。そこで、自分の身体が震えていることに気付く。
 大丈夫。私はそう唇を動かした。
 黒須くんは私のことを嫌ってはいないし、これからゆっくり考えてくれるというのなら、それまではこのままでいてくれるというのなら、私の想いは救われる。

 ――告げる前と、何も変わらないはずなのに。
 なぜだろう、胸の中に切ない風が吹いていて、私の頬を涙が一筋、静かに伝い落ちていった。