君までの距離 第二章 4


 デパートに着き、エレベーターで五階まで上った黒須くんと私は、このフロアの半分を占める書店のスペースに雑誌コーナーから足を踏み入れた。
 折角なので、普段あまり縁のないジャンルの本も見てみようと、私達は端から順に、ゆっくりと棚を眺めて歩いていった。
「あ、先輩、先輩」
 辞書や語学書の棚を見終えて小説のコーナーに入った時、私の後をついて歩く黒須くんが、指先で私の腕に触れて呼び止めた。
「何?」
 振り向くと、黒須くんは平積みされている文庫の山の中から一冊を手に取り、表紙をこちらに見せるように持って小首を傾げた。
「この小説、僕、少し前に買ったんですけど、とってもよかったですよ。見たことありますか?」
「へえ……それは読んだことないわ。ちょっと見せて?」
「どうぞ」
 私は黒須くんからその文庫を受け取った。裏表紙に書かれた粗筋を読み、ぱらぱらとページを捲る。
「面白そうね。買っていこうかな」
 すると黒須くんは「あ、じゃあ」と言って手を合わせた。
「僕の、お貸ししましょうか? 来週の部活の時、持ってきます」
「いいの?」
「はい」
「じゃ、今度、貸してもらってもいい?」
「もちろんです」
 黒須くんは笑顔で頷いた。
「ありがとう」
「いえ。興味を持っていただけて嬉しいです」
 私は文庫を元あった場所に戻し、再び店内を歩き始めた。
「楽しいですね」
 店内の徘徊を続けていると、黒須くんが、弾んだ声で私に言った。
「お休みの日は部活がないんだって思うと、何だか寂しくて。それで街に来たんです。本屋さんを見ていれば気が紛れるかな、って……」
「うん」
「でも、今わかりました。本当は、部活がないこと、じゃなくて、先輩に会えないのが寂しかったみたいです。先輩に会えて、こうして一緒に本を見られて、僕、凄く幸せです」
 私は思わず、足を止めて黒須くんに目を向けた。私と目が合った黒須くんは、照れたようにえへへと笑った。
 これが計算だとしたら、相当な悪魔である。
 しかし黒須くんのこういった言動は、媚びを売っているわけでも思わせ振りをしているわけでも、まして恋愛感情を含んでいるわけでもない、純粋な好意の表現であることを、私は十分に理解している。――理解してはいるけれど。
「あのね、黒須くん」
 迷った挙げ句、私は一応伝えておくことにした。黒須くんの無自覚は、どうにかしてもらわないと私が持たない。
「たとえ本当にそう思ってくれてるんだとしてもね。そういうことをさらっと言うのはどうかと思うわ」
「え? ……僕、何か失礼なこと言いました……?」
 非礼があったと思ったらしい黒須くんは、不安そうな表情を浮かべる。
「ううん、違うわ、失礼なんてないわよ。黒須くんが礼儀正しいのは私も感心しているもの。でも、素直なのはいいけど、黒須くんみたいな子にそんなこと言われたら大抵の女は勘違いする、ってこと、わからない?」
 今は私に対してだけ言っているようだからいいものの、例えばクラスで親しくなった子などにまで、無邪気にこんなことを言うようになったら。私のこと好きなのかな、なんて勘違いする女子が続出してしまうに違いない。現に私は、勘違いの寸前で、理性を駆使して何とか踏み止まっている。
 勝手だけれど、黒須くんの一番近くにいるのは私でありたい。他の女の子に懐く黒須くんなんて見たくはないのだ。だからつい、私はそう注意してしまったのだが。
「勘違い……?」
 黒須くんは、全く意味がわからないという顔できょとんとしている。私は「わからなければいいわ」と言って、再び歩き始めた。
 注意をしておきたいとはいえ、これ以上言い続けたらぼろが出て、隠しておかなければならない私の気持ちがばれてしまいそうだった。それだけは避けなければ。いつかはこの想いを告げる時が来るかも知れないが、それは今ではないことは確かである。
 胸の鼓動がうるさく鳴り響いていることを黒須くんに悟られないよう、私は先程と変わらぬ足取りを心掛けて先を歩いた。


 一通り書店を見終えると、黒須くんは一冊の本を手に、レジへ向かった。
「買っちゃいました」
 レジから戻ってきた黒須くんは、本の入った紙袋を両腕で胸に抱き、ほくほくとした笑顔を見せる。
「よかったの? 来週でよければ私が貸したのに」
 黒須くんが私にそうしたように、あの後、私も黒須くんにおすすめの本を紹介した。するととても興味を示してくれたので、私は来週貸してあげると言ったのだが、黒須くんは今購入していく方を選んだのだった。
「でも、すぐに読みたくて……。それに、先輩が薦めてくださる本は、僕もずっと手元に残しておきたいですし」
 そう言って、黒須くんは紙袋を大切そうに抱き締める。
「そう?」
「はい」
 頷く黒須くんが凄く嬉しそうなので、よしとした。
「この後、どうする?」
 書店から離れながら、私はさりげなく尋ねた。本を見るという目的は果たしたし、先程絡んできた彼も、さすがにもう私達を探してなどいないだろう。このまま解散してもいいが、できればまだ一緒にいたい、と思ってしまう。
「そうですね……」
 口元に右手を当てて考える仕草をし、黒須くんは遠慮がちに口を開いた。
「あの、迷惑でなければ、なんですけど……。いいですか?」
「何?」
「もう少し、先輩といたい……です。折角お会いできたわけですから」
 黒須くんはもじもじと、胸元で両手の指先を絡め合わせながら言う。黒須くんにそう言ってもらえて、私は嬉しかった。
「じゃ、ちょっと遊んでいこうか」
「は、はい、ありがとうございます……!」
 黒須くんは尻尾を振る仔犬のように目を輝かせて喜んでくれた。ありがとうと言うべきは私の方だ。まだ黒須くんと休日を過ごせるなんて、夢のようである。
「どこに行きたい?」
 尋ねると、「先輩と一緒ならどこでも楽しいです」という答えが返ってきた。
「どこでも?」
「はい、どこでも。先輩の行きたいところに行きたいです」
 そう言われると、ありがたいような、寧ろ困るような。私は少し悩んでから言った。
「そうね、じゃあ――」
 提案した行き先に、黒須くんは頷いた。