君までの距離 第二章 3


 勢いでファミリーレストランに入ってしまった私達ではあるが、とにかく入店したからには何か注文しようと、私はフライドポテトを、黒須くんはチョコレートパフェを頼んだ。それを食べながら、私は先程の出来事の経緯について、黒須くんから話を聞いた。
「つまり、こういうことね?」
 私は皿に盛られたポテトの山から一本を摘まみ上げて言った。
「一人で歩いていたら、さっきの彼がわざとぶつかってきて、因縁を付けられた。謝ったけれど許してくれなくて、路地裏に引っ張っていかれそうになったところに、私が割り込んできた、と」
 黒須くんがぽつぽつと語った内容を纏めると、そういうことのようだ。思った通り、ほとんど当たり屋に近い。黒須くんは華奢で、大人しそうな見た目だから標的になったのかも知れない。
「はい」
 黒須くんはスプーンの先でパフェのクリームを突っつき、ちまちまと口に運びながら頷く。
「あ、あの。でも、『わざと』と言い切れるわけではないかも……僕の不注意で接触してしまったのかも知れませんし」
「よそ見していたの?」
「いえ。ちゃんと前を見ていましたが、あの方がこちらに向かってきて」
「で、絡まれたわけでしょう? どう考えても『わざと』の可能性が高いと思うけれど」
「……そうでしょうか……?」
 生クリームを掬ったスプーンをぱくりとくわえ、黒須くんは不安そうに呟く。お人好しなのか、人を疑うことを知らないようで、今なお、自分の方が悪かったのではないかと思っているらしい。
「たとえ黒須くんに過失があろうと、軽くぶつかった程度で絡んできたなら、それは相手が悪いわ」
「そう、ですね……。わかりました」
 私がきっぱりと言い切ると、ようやく納得したようだった。そして黒須くんは、パフェをつつく手を止めて私を見た。
「あの、先輩」
「何?」
「助けていただいて、ありがとうございました」
 そう言って、深く頭を下げる。
「気にしないで。私、ああいうの見ると放っておけないだけなのよ」
 言いながら、私は摘まんだポテトを口に放り、咀嚼して飲み込んだ。
 子供の頃から、いじめられている子や絡まれている子を見れば、考えるより先にその現場に割り込んでいって、いじめっ子に注意をしたり、喧嘩を代わりに買ったりした。これは性なのだ。
「先輩は、優しいだけじゃなくて、強い人なんですね」
「別に、こんなことくらい誰だって――」
「そんなことありません。普通は見て見ぬ振りをすると思います。勇気がなければできないことです。……僕も、先輩のように強くなりたいです」
 黒須くんの濁りのない真っ直ぐな瞳が眩しい。私はそんなに賛美されるようなことをしたつもりはない。あんなバタバタとした追いかけっこよりスマートな助け方はいくらでもあっただろう。
「美化し過ぎよ。後輩が困ってたら、助けたいと思うに決まってるでしょ」
 苦笑した私に、黒須くんは「優しいですね」と微笑んだ。
「ところで、黒須くん」
 先輩のようになりたい――嬉しい言葉ではあるが、敬われることに慣れていない私は、これ以上この話が続いたらどう反応していいかわからなくなりそうなので、話題を変えることにした。
「私、勝手にファミレスに入ってしまったけれど、黒須くんは何か用事があって駅前に来てたんでしょう? 急いでいたりしたんじゃない? 大丈夫だった?」
「あ、はい、大丈夫です。駅前には本屋さんを見たくて来たんです。急ぎの用事はありません」
「そうなの? 私も本屋に来たんだ」
「そうですか。奇遇ですね」
 黒須くんは嬉しそうににこにこと笑う。相変わらず笑顔があどけなくて可愛らしい。
「もう行ってきたの?」
「いえ、これからです」
「そう。あ、じゃあさ」
 私はパチンと手を打った。
「この後、一緒に行かない? 本屋」
「え?」
 私の提案に、黒須くんが目を瞬かせる。
「まださっきの彼が近くにいるかも知れないし。そうでなくとも、また変なのに絡まれたらと思うと、心配で仕方ないもの。一緒に行動しよう?」
 すると黒須くんは戸惑ったように瞳を揺らす。
「え、でも……。あの、それって、その……」
 テーブルに置いた左手の指に目を落としてもごもご言った黒須くんは、窺うようにそろりと顔を上げた。私と目が合うと、なぜか顔を赤らめてまた目を伏せる。
「嫌かな?」
 黒須くんの不可思議な態度を見て、私はそう尋ねた。すると、「嫌じゃ、ありません」と小さな声がぽつりと返ってきた。そして黒須くんはこう続ける。
「でも、先輩はいいんですか……? 僕なんかと街を歩くの、嫌じゃありませんか?」
「は?」
 何を言うかと思えば。
「嫌なわけないじゃない。もちろん黒須くんがよければだけど、一緒に本を見るのも楽しそうだし、楽しみよ」
 私がそう答えると。
「じ、じゃあ……ご一緒させてください」
 黒須くんは微笑し、小首を傾げて言った。その仕草は思わず抱き締めたくなる愛らしさで、黒須くんに抱き付いた涼子の気持ちもわからなくはないな、と思った。
「それじゃ、食べ終わったら行こうね」
「はい」
 私の言葉に素直に頷いて、黒須くんは再びパフェを食べ始める。
 愛らしいといえば。
 パフェを食べる黒須くん、というのも、かなり可愛い画なのであった。

◆◇◆◇◆

 やがて、黒須くんと私は、雑談に花を咲かせながら食事を終えた。
「――さて、どうする? そろそろ出ようか」
「そうですね。美味しかったです」
 食べ終えてからもしばらくはお喋りを続けていた私達だが、話がきりのいいところに落ち着いたので、店を出ることにする。私は会計の話になる前に素早く伝票を取り上げて、レジへ向かった。
「あ、先輩、僕が」
 黒須くんが慌てた様子で席を立つが、それを尻目に私は、二人分、纏めて会計をした。小走りで私に追い付いた黒須くんは、私の斜め後ろで、自分の財布を取り出してそわそわしている。
「よし、じゃ、行こう」
「せ、先輩、待ってください」
 勘定を済ませ、お釣りとレシートを財布にしまって店を出ると、黒須くんが私の後を追いながら話し掛けてくる。
「先輩、あの、お会計……。僕の分、おいくらでした?」
 私は店の扉の外で足を止め、「別にいいわよ」と答えた。
「黒須くんに確認もしないで私が勝手に入った店だし、黒須くんが払うことはないわ」
「そんな、駄目ですよ。ええと、確か、五百三十円くらい、ですよね?」
 黒須くんが小銭入れを開こうとしたので、私はその手を引き止めた。
「こういう時はただ、ごちそうさまでした、って言えばいいの。君は二つも年下なんだから。ね?」
「でも」
「私には今まで後輩とかいなかったから、ちょっと年上ぶってみたいのよ。もちろん、毎回奢ってあげられるわけじゃないからね。今回だけ。それならいいでしょ」
 初めてできた可愛い後輩。折角の機会だから、最初くらい、先輩らしく振る舞ってみたかった。
「で、でも……」
 黒須くんは考え込むように数秒の間を置き、やがて控えめに微笑んで、遠慮がちにこう言った。
「あ、ありがとうございます……ごちそうさまです」
「素直でよろしい」
 私は黒須くんの頭を撫でた。すると黒須くんは「その代わり」と続ける。
「いつかまた、二人でお食事する機会があったら、その時は、先輩の分も僕に払わせてくださいね」
 なんてことを一丁前に言うものだから、思わず笑った。
「嫌ね、一年生に奢らせられないわ。割り勘でいいわよ」
「それを言うなら、僕だって。女性に奢っていただくわけにはいかないですよ。……子供扱いしないでください」
 黒須くんは上目で私を睨み、頬を膨らせる。その拗ねたような表情も、可愛かった。
「そうね、わかった。その時は、ごちそうになろうかな」
 私がそう言うと、黒須くんは嬉しそうに大きく頷いた。
「じゃあ、本屋行こう。デパートの中に入っているところでいいのよね?」
「はい」
 黒須くんと私は、書店のあるデパートを目指して歩き出した。
 休日の昼下がり、駅前という場所で、初めて目にする私服姿の黒須くんと、肩を並べて書店へ向かう。平日の部活の後にはいつもこうやって二人並んで帰っているのだし、それは今やすっかり日常として馴染んでいるが、今日の場合、なぜか妙にくすぐったかった。
 私の隣を歩く黒須くんは、ワイシャツの上に黒いベストを着て、ベージュの綿のズボンを穿いていた。青藍の制服はワイシャツに藍色のニットのベストなので、印象はさほど変わらないが、私服というだけで特別な感じがする。
 歩きながらそんなことを考えていた時、黒須くんの手と私の手が、微かに触れ合った。
「あっ、ご、ごめんなさい」
 瞬間、黒須くんは、私と触れた右の手を肩の高さまでぱっと上げ、そう謝罪した。
「え? ううん」
 私にとっては気にするほどのことではない接触だったので、黒須くんの大きな反応にこそ、ちょっと驚いた。
 またぶつかることのないようにか、先程より私から距離を取って歩く黒須くんは、顔を赤くして俯き、左手で右手をぎゅっと握り締めていた。
「ごめん、そんなに不快だった?」
 私は黒須くんの顔を覗き込んで謝った。私には何でもないことでも、黒須くんは不快感を覚えたのかも知れない。しかし、軽く手が触れただけで嫌がられるのだとすれば、相当嫌われているのではないか。そう考えると少し、いや、かなりショックだった。
「い、いえっ、違います。嫌だったわけではないんです」
 黒須くんが首を横に振ったので、私はほっとした。よかった、手が触れるのも嫌なほど嫌われているわけではないらしい。
「ただ、その、何と言うか。先輩が近くにいることを、その……、意識、してしまって。……すみません」
 顔を真っ赤に染め、黒須くんは途切れ途切れに言う。
 それを聞いて、私はつい淡い期待を抱いてしまった。手が触れたことで、意識する。そんな風に心が動くということは、少しは脈ありなのだろうか。私の一方的な片想いというわけでもないのではないか――。
(いや)
 浮かんだ期待を、すぐに打ち消す。
 黒須くんは純真だから、単に女性に慣れていないだけなのだろう。思い返せば、涼子に抱き付かれた時だって、こういう反応を見せていたことだし。
 二つも年下の子への想い。所詮レベル違いの不毛な恋だとはわかっているはずなのに、黒須くんの好意的で可愛らしい言動は、いちいち私を期待させる。全く、罪な子である。
 とりあえず私は、一番確かめておきたいことを尋ねた。
「私が嫌いなわけじゃないのね?」
「と、とんでもないです」
 黒須くんはぱたぱたと手を振った。
「僕、誰かにこんなに気に掛けていただいたり、優しくしていただくの、初めてなんです。そんな先輩を、嫌いなはずないじゃありませんか」
「そう」
「先輩のことは、その、……大好きですよ」
 恥ずかしそうに小声で付け足されたそんな言葉には、期待するなという方が無理な話であろう。