君までの距離 第二章 2


 土曜日。
 一般的な公立校である青藍高等学校は、土日には授業はなく、また、文化系の部活は休日には大概活動がない。例に漏れず、文芸部は今日はお休みで、私は自宅でのんびりと過ごしていた。因みに例外としては、吹奏楽部などはコンクールが近い時期には休みの日でも学校に集まって練習をすることがあるようだ。
 文芸部の主な活動は執筆または読書。それらは、部室でなくとも、自宅でだろうとできること。だから、一人で活動した昨年は、部活がない日を残念に思ったことはほとんどなかった。
 しかし、今は違う。部活がないということは、イコール、黒須くんに会えないということに他ならない。今日と明日の二日間は黒須くんの顔を見られないのだと思うと、ちょっとだけ寂しかった。
 それは、一昨年、先輩と二人で活動していた時の休日に覚えていた一抹の寂しさに似ているような気がした。


 その日の午後、私は少し外に出ることにした。
 最寄りの停留所からバスに乗り込み、駅前を目指す。バスの中は空いていて、乗客は私を含めても三人しかいない。
 後方の二人掛けの座席に一人で納まった私は、鞄から一冊の文庫を取り出した。私が降りる予定のH駅前は終点だ。乗り過ごす心配はないから、読書に集中してしまっても構わない。
 開いた本は、夏目漱石の「こころ」。先日黒須くんが読んでいた小説を、私も久し振りに読み返したくなったのである。
 読書に浸る私を乗せるバスは、ほとんどの停留所を素通りしてスムーズに進むこと二十数分、ロータリーを大きく回って、駅前の降車場に到着した。
 文庫を閉じ、運転手さんに礼を言ってバスを降りると、土曜の駅前は人で賑わっていた。
 さて、どこに行こうか。駅前に来た一番の目的は書店で本を見ることだが、デパートで春物の服を探したり、喫茶店でお気に入りの紅茶を飲んだりもしたい。
 第一の目的地が定まらないまま、とりあえず、行き交う人々に混じって歩き出す。私の隣には中学生くらいの男子三人が並び、彼らの会話がはっきりと耳に届いた。
「次ゲーセン行かねー?」
「何か腹減ったからどっか寄ろうぜ」
「つーか俺、今月もう金ねえよ」
 笑い合いながら歩く三人の姿を横目で見ながら私は、黒須くんは今頃どうしているだろう、と思った。この間は、まだクラスに慣れないというようなことを言っていたけれど、休みの日に一緒に遊ぶような友達はいるのだろうか。
 心配というか屈託というか、黒須くんを思って何だか保護者のような気分になっていた、その時。
「離してくださいっ……」
 どこからか耳に飛び込んできたそんなか細い声が、あまりにも黒須くんのものに似ていてドキリとした。
 黒須くんを思うがあまり、とうとう幻聴まで現れたのか。それは危ない。非常に危ない。
 それともまさか本物が近くにいるのだろうかと、きょろきょろと辺りを見回してみる。すると、雑踏から少し離れた路地の隙間に、見覚えのある綺麗な横顔を見付けた。
(うわっ、本物)
 さっきのドキリの比にならないくらい、どきーんと心臓が跳ねた。
 と同時に、一つの疑問が浮かぶ。幻聴にしろ本物にしろ変だと思っていたことだが、本物であったならば尚更おかしいことがある。「離してください」とは一体何だ。
 私は遠巻きに黒須くんの様子を窺った。黒須くんの前には一人の男の子がいて、黒須くんの手首をがっしりと掴んでいる。一方の黒須くんは抵抗するように腕を捩り、明らかに嫌がった素振りを見せていた。
 そんな二人は、どう考えても友好的な関係には見えない。先程の声が本物だとすれば、揉めているとみて間違いないだろう。
 見過ごすという選択肢はなく、私は真っ直ぐに、黒須くんのいる路地に向かって歩いていった。
「黒須くん?」
「え……っ」
 近付いて声を掛けると、黒須くんの肩はびくんと上下した。
「どうしたの? 何かあった?」
「せ、先輩……ですか?」
 こちらに気付いた黒須くんは、私を見て目を丸くした。私は黒須くんの手首を掴んでいる少年に目を向ける。
「何だ、あんた。こいつの女?」
 髪を赤く染めたその少年は、私を睨み下ろした。少年と言っても、黒須くんよりは年上だと思われる、私と同い年くらいの男の子である。
「何があったんです?」
 私は彼の質問には答えず、さりげなく黒須くんの腕を掴んで自分の側へ引き寄せながら尋ねた。
「別に。歩いてたらこいつが激突してきたから、注意しただけだ」
「ぶつかった?」
「ああ」
 注意しただけ。彼はそう言うが、黒須くんは怯えたように身を縮めている。恐らくは、軽い接触に言い掛かりを付けられ、理不尽に絡まれたのではないだろうか。
 だが、これ以上問題をこじらせてはいけないので、私は「そうですか」とだけ答えた。
「後輩が失礼いたしました。悪気があったわけではありませんのでご容赦ください。……では、失礼します」
 私は黒須くんの肩を抱き、この場を離れようと踵を返した。しかし。
「待てよ、まだ許しちゃいないぜ」
 そんな声がして、私の腕が乱暴に掴まれた。
「何ですか」
 なるべく刺激せず穏便に解決しようとしていたことも忘れ、私はつい眉をひそめて彼を見上げた。すると、彼はニヤリと笑ってこんなことを言う。
「許して欲しけりゃ、俺に付き合えよ」
「はい?」
「だから、こいつを許す代わりに、あんたが今日一日俺に付き合え、って言ってんだよ。意味はわかるよな?」
「は?」
 私はポカンとした。どういう提案だ、それは。
「話聞いてりゃ、あんた、こいつの先輩なんだろ? 可愛い後輩が痛い目にあうのと、あんたが一日楽しく俺と遊ぶの、どっちがいい」
 そこで私の身体にゾワッと鳥肌が立ったのは恐怖心からではない。彼の言葉が不快極まりなかったから、それだけだ。
「やめてください、先輩は関係ないじゃありませんか」
 勇気を振り絞ってくれたのであろう、大人しい黒須くんが精一杯張り上げたと思われる震えた声で抗議したが、「うるせえな、てめえは黙ってろ」とはねのけられた。
「俺は虫の居所が悪いんだよ。そのお綺麗な顔殴られたくなかったら、この女をよこせ」
 その勝手な言い草に、私は呆れ返った。
「先輩……」
 黒須くんはそっと私の腕に触れる。弱々しい指先の感触。それは心許なく、助けを求めているような触れ方だった。
(仕方ない)
 私は覚悟を決めた。子供騙しの手だが、こうなったら――。
「あーっ!」
 私は彼の背後を指差し、思いきり叫んだ。
「何だ!?」
 驚いた彼が私の腕を離して振り返った隙に、黒須くんの手を取り、今指差した向きとは反対の方向に駆け出した。
「あ、待て」
 逃走した私達に気付き、数秒遅れて追い掛けてきた声、そして足音。追い付かれまいと、無我夢中で走る。これでも足には自信がある。陸上部でもない限り、その辺の男子には負けないつもりだ。
「わ……、せ、せんぱ……っ」
 私に腕を引かれ、足を縺れさせながら走る黒須くんは、戸惑った声を上げた。黒須くんは足が速いわけではないようで、引きずられるようにして必死についてくる。
 彼をまくべく、私は何度も角を曲がって狭い路地を駆け抜ける。やがて開けた道路に出た時、ある看板が目に入った。
(ファミレス?)
 私は反射的にその店の扉に飛び付き、中に入った。カランカランとベルが鳴り、店の外で繰り広げられた追いかけっこなど知る由もないウェイターさんがにこやかに現れる。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「二人です」
 私はぜえぜえと息を切らせている黒須くんを振り返り、そう告げた。呼吸を乱した黒須くんを目にしたウェイターさんは一瞬何事かという顔をしたが、すぐに穏やかな笑顔をつくり、私達を空いている席に導いた。
 黒須くんと私は案内されたテーブル席に向かい合わせで座ると、どちらからともなく顔を見合わせた。
「ご注文がお決まりになりましたらブザーでお知らせください」
 そう言い残して去ったウェイターさん。
 昼下がりの、若者や家族連れで賑わった店内で、黒須くんと私はしばし無言で見つめ合う。こうしてファミレスの一角に座り、落ち着いてみれば、少し前まで走り回っていたのが嘘のようだ。
 そもそも、私達は一体何をしていたのだろうか。そんな気にさえなってくる。
「……ふふ」
 黒須くんを見付けてからの一連の行動を思い返すと何だかおかしくなって、私は笑い声を漏らした。
 くつくつと笑う私を見て、黒須くんは不思議そうに小さく首を傾げた。