君までの距離 第一章 5
翌日の放課後。教室の清掃を終えた私は、部室を訪れ、席に着いて原稿を開いた。
しかし、一向に筆は進まず、黙って原稿を睨み続けるだけの時間が流れた。私の手に握られた愛用のシャープペンシルは、文字を記すという本来の役割には使用されず、ただ無意味に、親指の周りをくるくると回転させられている。
駄目だ、書けない。
私はペン回しを止め、原稿と並べて置いているメモ用紙の隅にグシャグシャと線を描いた。
溜め息を吐き、部室の唯一の出入口である扉に目を向ける。私は先程からずっと、その扉が開くのを今か今かと待ちわびている。執筆に集中出来ないのは、そのせいだ。
そう、私が落ち着かない原因は、まだ部室に来ていない黒須くんなのだった。
昨夜、「黒須くんに特別な感情を抱いているのも同然」という考えに至ってから、私の頭はそのことでいっぱいになった。お陰で今日の授業はあまり身に入らなかった。そしてそれは部室に着いてからも変わらず、執筆が手に着かないという有り様。
「……意識し過ぎだわ」
ひとりごち、左手を上げて後頭部をガシガシと掻いた。
十七年生きてきて、一度や二度は片想いの経験があるから、わかる。私が黒須くんに抱く好意は、恋に酷似していた。だが、それは「よく似ている」だけで、断言はできないものだった。
今日の部活でもう一度黒須くんと顔を合わせれば、この感情の正体がはっきりするかも知れない。そう考えた私は、黒須くんが部室に現れるのが待ち遠しいような、確証を得てしまうのが怖いような――相反する思いが競り合い、落ち着きを失っているのである。
それにしても。ふと、私は腕時計を見た。私が部室に着いてから、二十分は経っている。ちょっと遅くないだろうか。一年生は三年生に比べて掃除の担当区域が広いとはいえ、これほど時間は掛からないはずだ。
何かあったのでは、と心配になった時、扉がコンコンと音を立てた。
「すみません、遅くなりました」
扉を開けて部室に入ってきたのは、待ち人である黒須くんだった。黒須くんの呼吸は少し乱れていて、ここまで急ぎ足でやってきたことが窺えた。
「何かあったの?」
たった今までそわそわしていたのが嘘のように、私は極めて冷静な口調で尋ねた。こういう時だけ演技の達者な自分に笑ってしまう。
「掃除が長引いたんです。それから、日直だったので、掃除の後に学級日誌を書いていたら遅くなってしまって」
黒須くんは呼吸を整えながら、遅れた理由を答えた。
「走ってきたの?」
「はい。……あ、いえ、小走りで」
「そういう時は、急がなくていいのよ。文芸部は個人プレーだから、部員になったからって毎日来なきゃいけないわけじゃないもの。来られる日、来られる時間にふらっと顔を出してくれればいいんだから」
「すみません」
「ほら、座って」
着席を勧めると、黒須くんは昨日と同様、私の向かいに座った。
黒須くんを正面から捉えた私は、その甘い顔に今日も見とれた。
(やっぱり、綺麗だよな)
目が大きくて、睫毛が長くて。女の私よりずっと可愛いのは間違いない。口に出したら、黒須くんは嫌がるだろうけれど。
「今日もよろしくお願いします」
私がそんなことを思っているとは知る由もない黒須くんは、ぺこりと頭を下げ、鞄を開いた。黒須くんは顔が可愛いだけではなくて、素直で礼儀正しいのだ。
(昨日なんて可愛いこと色々言ってくれたし)
帰りのバスが一緒であることを「嬉しいです」と喜んでくれたり、「僕も先輩のこと好きです」なんて言ってくれたり、私の書いた小説に「いつか読ませていただけませんか」と興味を示してくれたり。
そう考えて、私ははっと思い出した。
「そうだ。あのさ、黒須くん」
「はい?」
私は、今書いているものとは別の、脇に寄せて置いてある原稿を持ち上げた。これは、私が去年書いた短編小説だ。
「私の小説、一応持ってきたんだけれど」
昨日、私の小説を読んでもらうことを黒須くんと約束した。それは「いつか」という話だったが、「楽しみにしています」と言われたのが嬉しくて、早速今日持ってきてしまったのだ。
「本当ですか?」
黒須くんは鞄の中を探る手を止め、目を輝かせて私を見た。そう食い付いてこられるとちょっとプレッシャーである。
「面白くないかも知れないけれど、興味があったら、持ち帰って読んでもらえると嬉しいわ」
私は畳まれた原稿を、黒須くんの目の前にパサリと置いた。すると黒須くんはそれを手に取り、「今読んでいいですか?」と尋ねてきた。
「え、今? 今は……」
私は口ごもった。
「駄目ですか?」
「駄目ではない、けれど」
この場で読まれるのは、何となく気恥ずかしい。しかし、読んでくれと言いながら、部室では読むな、というのはおかしな話なので。
「う……、あー……、うん、わかった、どうぞ……」
歯切れの悪い私の答えに、黒須くんは困ったように微苦笑を浮かべた。
「そんな風に言われたら、読みづらいです」
それはもっともである。
「ここで読まれたら、何かまずいんですか?」
黒須くんは首を傾げる。私は「いいえ」と首を振った。
「ただ、私が恥ずかしいだけ」
「何だ。じゃあ読みます」
私の恥じらいを「何だ」で済ませた黒須くんは、躊躇なく原稿を開いた。黒須くんの瞳が文字を追い始めるのを見て、私の鼓動は速まった。
自ら文芸部に入部を希望したくらいだから、黒須くんはもちろん読書家なのだろう。目が肥えた人には、私の書く話なんてとてもつまらないのではないだろうか。
私はただ、文章を綴るのが好きだから小説を書いている、それだけだった。作家志望というわけではなく、どの作品も、自分が楽しむためだけに書いたものなので、構成は雑だし文も粗い。
人に読んでもらうのは、かつて文芸部に在籍していた、今はもう卒業してしまった先輩に見せた時以来、約一年半振りのことだ。先輩は厳しくも優しい感想を述べてくれたが、黒須くんの目にはどう映るだろう。
私の原稿を黙々と読んでくれている黒須くんが気になって仕方がないが、読了するまでずっと見つめているわけにもいかないので、私は今書いている原稿に目を戻した。
相変わらず集中できているとは言いがたいものの、少しずつ文を書き進めていくこと、十分ほど。そろそろ読み終える頃ではないかな、と思い、私は黒須くんにちらりと視線を向けた。
すると。
「……え?」
黒須くんの顔を見て、私は目を疑った。
「く、黒須くん、どうしたの」
見て見ぬ振りをすることなどできなくて、私は思わず声を掛けてしまった。
驚くのも無理はなかろう。黒須くんの白い頬には、透明な雫が伝っていたのだから。
「あ……大丈夫です、すみません」
黒須くんは原稿から目を離さずに答えた。頬を流れる幾筋もの涙を拭うこともせずに、原稿を読み続ける。
「…………」
私は言葉を失った。
その原稿は、感動できるようなお話をつくりたいと思っていつも以上に真剣に書いた、私の拙い作品の中では比較的出来のいいものなのだけれど、いくら出来がいいとはいえ、私のレベルなどたかが知れている。私の小説が黒須くんの琴線に触れたなんて信じられない。
だが、現に、黒須くんは涙を流している。
黒須くんを泣かせてしまった。男の子の涙を間近で見たことがなかった私は、どうしていいかわからず、呆然と黒須くんを見つめた。
黒須くんは、泣き顔さえも綺麗だった。静かに伝い落ちる涙がきらきらと輝く様は、一編の詩のように美しい。
やがて、黒須くんが原稿から顔を上げた。涙に濡れた瞳と目が合って、ドキッとする。
「とてもよかったです、感動しました。読ませていただいて、ありがとうございました」
そう言って、黒須くんは読み終えた原稿を差し出した。私は動揺を隠せず、原稿を受け取りながら「ありがとう」と返すのが精一杯だった。
「格好悪いところを見られてしまいました」
黒須くんは濡れた頬を手の甲で拭い、決まり悪そうに呟いた。
「男が人前で泣くなんて情けないですよね」
「そんなことないわ」
私は黒須くんの自虐的な言葉を否定した。男だから泣いてはいけないなんて、そんなことはない。
私自身、黒須くんの突然の涙にはびっくりしたけれど、それ以上に、嬉しかった。私の書いたもので感動してくれる人がいるなんて思わなかったから。
「……黒須くんって涙脆いの?」
何を言ったらいいか悩んだ末に私の口から出た質問に、黒須くんは首を横に振る。
「いえ、滅多に泣きません。でも、先輩の小説の世界は凄く綺麗で――気が付いたら涙が溢れていました。こんな素直に泣けるなんて、自分でも驚いています」
まだ余韻があるのか、黒須くんは再びぽろぽろと涙を溢して微笑んだ。
「先輩の作品、僕はとても好きでした」
ああ、また。
私の胸はきゅっと締め付けられ、甘く切ない愛おしさが込み上げてきた。その瞬間、私の中で、黒須くんがただの後輩などではなくなったのを感じた。
私はもう、この感情の名前に気付かない振りはできない。
それは確かに、恋だった。