君までの距離 第一章 4


 とろみのある茶色の液体が、鍋の中でぐつぐつと煮えている。
 私はそれを小皿に少しだけ取り分け、スプーンで掬って口に運んだ。舌に、ほどよい辛さを感じる。
 今、私は夕飯の支度をしているところだった。今日の我が家の夕飯のメニューは、カレーライスなのである。
 ルーの調理が終わり、コンロの火を止めた時、玄関から、扉が開く音が聞こえた。
「ただいまー」
 続いて、よく聞き慣れた、父の声が届く。
「お帰りなさい、お父さん」
 エプロンを外して玄関まで迎えに行くと、父は嬉しそうに笑った。
「いい匂いだな。今日はカレーライスか」
 そう言う父の笑顔に、私もつられて微笑みながら「うん」と頷いた。
「すぐ食べる? それとも、お風呂に入る?」
「結構腹減ってるから、先に食いたい、かな」
 父はその場で、身に纏っている作業着を脱ぎ出した。あっという間に、玄関を入ってすぐの場所で、白の肌着と紺色のトランクスのみという姿になったわけだが、いつものことなので、私は特に気にしない。
「了解」
 私は台所に戻り、カレーを二皿よそって食卓に並べた。部屋には、父の言う通り、スパイシーな香りが漂っている。
「おっ、美味そうだな」
 父は自分の部屋で部屋着を着てから食卓に現れた。席に着くと、明るく「いただきます」を言い、物凄い勢いで食べ始める。余程お腹が空いていたようだ。
「じゃ、私も。いただきます」
 父の向かいに座り、私も自分のカレーに手をつける。――うん、なかなか美味しい。
 父はカレーを頬張りながら口を開いた。
「翼は随分料理が上手になったもんだよな。美味いよ」
 そう誉められ、私は昔を思い出して微苦笑を浮かべた。
 数年前に母が亡くなり、私は必要に迫られて家事を始めた。掃除や洗濯は問題なくこなせたのだが、料理はてんで苦手な分野だった。
 初めて一人でフライパンを握って作ったものは、今でも覚えている。卵焼きだった。それは外側が真っ黒に焦げ、折り畳んで形を作る時に酷く失敗してあちこち破れているという、とても見た目の悪い、奇妙なものになってしまった。
 しかし父は、ぼろぼろの卵焼きを文句も言わず食べてくれた。そんな父の姿を見て、私は料理を頑張ろうと奮起し、特訓を始めた。あれから数年、今では一通りの料理は作れるようになっている。一応、成長したのだ。
「そうだ、学校はどうだ? 楽しくやってるか?」
 昔の記憶に浸っている私に、父がふと思い付いたように尋ねてきた。
「まあ、去年と特に変わらず、かな。それなりに楽しいよ。あ、そうそう、今日、部活に後輩が入った」
「そうか。一年生は可愛いだろう」
「うん」
 それはもう、とても可愛い子である。黒須くんのあどけない顔を思い描くと、つい口元が緩んだ。
 父と私は、それからも他愛のない話をしながら食事を続けた。
「美味かったよ、ごちそうさま」
 父はカレーを綺麗に完食し、スプーンを置いて席を立つと、居間のソファに寝転がった。ほぼ同時に食べ終えた私は、二枚の皿を流しに持っていき、皿の中に水を満たした。
「お父さん、お風呂、何時に入りたい?」
「んー、あと二時間くらい後」
 テレビを点けて野球のナイター中継にチャンネルを合わせる父の返答を聞き、私は一旦自分の部屋にこもることにした。本当は私も父と一緒にナイターを観たかったのだが、先に勉強をしなければならない。
 自室に入った私は、机に向かい、参考書とノートを広げた。まずは、少し手強い数学からだ。
「さて、やりますか」
 気合いを入れるように呟き、シャープペンシルを握ったその時。
 ヴー。
 突然、机の上に置いていた携帯電話が振動してそんな音を立て、私は「おわ?」という妙な声を上げた。
 携帯電話は一秒ほど震えたきり、何事もなかったかのように静かになった。電話の着信ではなく、メールが届いたようである。
 涼子かな、と思いながらサブディスプレイを覗くと、その小さな画面には『黒須千冬』という文字が浮かび上がっていた。
 私は目を丸くする。黒須くんとはバスの中で、「部活の関係で連絡が必要なこともあるかも知れないから」と言って連絡先を交換したのだが、黒須くんの方から連絡が来ることは予想していなかったため、驚いた。
 一体何の用だろう。急いでメールを開く。黒須くんからのメールにはこう綴られていた。

 夜分にすみません、黒須です。
 今日はありがとうございました。
 部活、とても楽しかったです。
 明日からの活動も楽しみにしています。
 これからよろしくお願いします。

「律儀だなぁ」
 それを読んだ私は、そう呟いた。わざわざメールをくれるところも、気にするほど遅くはない時間にも関わらず「夜分にすみません」と添えるところも、黒須くんらしいと言えば黒須くんらしい。
 私はすぐに返事を打った。こちらこそありがとう、明日からもよろしく、と短く綴る。絵文字の一つもない、シンプルなメールだ。いつも涼子に「翼のメールは素っ気ない」と言われているのを思い出して一瞬悩んだが、可愛らしい絵文字を使用するのは私の柄ではないので、結局そのまま送信した。
 送信完了の文字を確認してから携帯電話を閉じて一息吐くと、私は自分が微笑みを浮かべていることに気が付いた。
 私は、初めてできた可愛い後輩である黒須くんのことが、とても好きなようだ。黒須くんからメールをもらっただけで、何故だか凄く幸せな気分で、心がふわふわとしていた。
 これではまるで、黒須くんに片想いをしているみたいだ。そう思い、ふと考える。
 この『好き』は、黒須くんが可愛い後輩だから、なのだろうか。それとも、もっと特別な意識を持っているのか。
「……いや」
 そこまで考えて、首を横に振った。もし、この感覚が恋愛感情ゆえのものだとしたら、私は、ほんの少し前まで中学生だった十五歳の男の子に惚れてしまったことになる。さすがにそれはない、と思う。
「十五歳、か」
 私は噛み締めるように呟いた。
 私だってまだ十七で、たかだか二つ年上なだけなのだが、十五歳なんて、ずっと幼く感じる。十七歳と十五歳の間の隔たりは、僅かなようで、意外に大きいものだった。
 片方が手を伸ばしただけでは届かない距離が、二歳という年齢差には確かに存在している。そう考えて、ちょっと切なくなった。
「――あ」
 その時、私は不意に気が付いてしまった。
 黒須くんとの距離に切なさを覚えた時点で、特別な感情を抱いているのも同然だということに。