君までの距離 第一章 3


 夕暮れ時のオレンジ色の空の下、昇降口から校門まで伸びる桜並木の道を、黒須くんと肩を並べて歩く。
 校門を抜けると、門のすぐ側にあるバス停で、黒須くんと私は同時に足を止めた。
「黒須くんもバス通学なのね?」
 隣にいる黒須くんに、そう話し掛ける。
「そうです。先輩もなんですね」
「ええ。因みに、どれに乗るの?」
「ええと……これです」
 黒須くんは時刻表に書いてある系統番号を指差した。
「本当? 私と同じだわ」
「そうなんですか? じゃあ、バスの中でも、少しお話できますね。嬉しいです」
 そう無邪気に微笑され、私はちょっとドキッとした。話ができるのが、嬉しい、なんて。私にそんなことを言ってくれる人、他には絶対にいない。
 それに何せ、黒須くんは芸能人でもなかなかいないような美少年。私は決して面食いではないと思っていたけれど、黒須くんの端整な顔は、いつまでも眺めていたいくらい好きだ。そんな子にこんな可愛いことを言われては、少なからずときめいてしまうのも仕方ないだろう。
「……黒須くんって、結構罪な子ね」
 黒須くんから目を逸らし、微苦笑を浮かべて呟く。すると、黒須くんはちょこんと首を傾げた。
「すみません、今、何ておっしゃいました? よく聞こえませんでした」
 聞き取れなかったという黒須くんに、私は「いいえ、独り言」と言って笑った。
「そうですか」
 黒須くんは不思議そうにしていたが、特に追及してはこなかった。
 そんなやり取りをしながら、あと数分で到着するバスを待っていた、その時だった。
「あれ? 翼?」
 背後から、私の名を呼ぶ声がした。ほとんど反射的に振り返ると、そこには。
「やっぱり翼だ。よっす!」
 明るい声を発し、ポニーテールを揺らしながら小走りでこちらに向かってくる、背の高い女子生徒の姿。彼女は私のクラスメイト、新橋涼子しんばしりょうこだ。
「涼子。部活終わったの?」
「そうよ。今日も疲れたわ」
 私の側まで来た涼子は、自分の肩を拳でとんとんと叩いてみせた。涼子は青藍の女子バスケットボール部で主将を務めているのである。
「運動部は大変よね。お疲れ」
「まあね。――で、それより何よ、翼。この可愛い男の子はっ」
 そう言って、涼子は黒須くんの肩に腕を回し、自分の元にぐいっと引き寄せた。
「わっ」
 突然抱き寄せられた黒須くんは短く声を上げ、涼子の腕の中に納まると、目を白黒させた。
 黒須くんを自分に密着させたまま、涼子が言う。
「この子、一年の黒須でしょ? 何で翼が黒須と一緒にいるのよ」
「何、黒須くんのこと知ってるの?」
「当然。今年の一年は全体的にレベル高いけど、その中でもトップクラスの美形だもの。チェック済みよ」
 涼子は得意気な顔をしてふふんと笑った。そういえば涼子は、校内の、器量のいい男子に異常に詳しい人なのであった。新学期が始まってまだ二週間と経っていないのに、もう一年男子の顔と名前を把握しているらしい。
「それで? 二人はどういう成り行きで一緒にいるわけ?」
 重ねて尋ねられたので、私はこう説明した。
「黒須くんは、今日からうちの――文芸部の部員になったのよ。それで、部活が終わって、一緒に帰ろう、ってことに」
「へえ、文芸部に入ったんだ、黒須。翼ってば、文芸部は休部寸前とか言って、ちゃっかり可愛い子引き入れちゃって。羨ましいことね」
 私及び文芸部が当たりクジを引いたとでも言いたげな口振りである。確かに、黒須くんは私には勿体ない、いい子だけれど。
「あの……すみません。涼子さん……ですか?」
 不意に、涼子に横から抱きすくめられている黒須くんが、遠慮がちに声を発した。
「ん?」
「その……、離してください……」
 黒須くんは、小さな声でぽつりと言った。その顔はほんのりと赤くなっている。
「なあに、恥ずかしい? 照れちゃって、かーわいー」
 涼子は愉快そうに笑い、黒須くんの頬を撫でる。黒須くんは目を泳がせた後、助けを求めるように私を見た。
「黒須くんをからかうんじゃないの」
 私は黒須くんにくっつく涼子を無理矢理引き剥がした。純情な下級生をからかって遊ぶとは何事か。
 涼子から解放された黒須くんは、明らかに安堵した様子だった。そしてさりげなく涼子と距離を取り、私にぴたりと寄り添う。それは、苦手な人に会った幼児が親の後ろに隠れるかのような行動にも見えた。涼子のスキンシップに、余程困惑したのだろう。
「からかってないわよ。可愛いから、つい手を出したくなっちゃっただけでしょ」
「余計、質が悪いわよ」
 私は、悪びれもせず再び黒須くんに近付こうとする涼子の毒牙から、黒須くんをガードする。今の私は、ボールを相手チームのオフェンスに触れさせまいとするディフェンスのようだった。オフェンスとは涼子、ボールは黒須くんである。
 涼子と攻防を繰り広げているうちに、バスが到着した。私はほっと胸を撫で下ろす。涼子の利用するバスは私達とは違う路線なのだ。いくら涼子でも、自分の家とは別の方向に進むバスに乗ってまで黒須くんを追い掛けはしまい。
「私達このバスだから。じゃあね、涼子」
「あら、残念ね。黒須、ばいばい。そのうち、また会いましょ」
「あ、は、はい……さようなら」
 すっかり及び腰になっている黒須くんの返事を聞き、私は、黒須くんはもう涼子には会いたくないんじゃないだろうか、と思った。
 涼子と別れてバスに乗り込み、空いている二人掛けの座席に黒須くんと並んで腰掛けると、私は即座に黒須くんに頭を下げた。
「ごめんなさいね、黒須くん」
「え? 何がですか?」
 突然の謝罪に、黒須くんは戸惑った顔を見せる。
「涼子は強引だし、言ってることも危ないけれど。ただ黒須くんと仲よくしたかっただけなの、きっと。黒須くんは可愛いから、涼子が気に入るのも無理ないもの」
「……また、『可愛い』、ですか」
 黒須くんは複雑そうな表情を浮かべた。その反応に、私は、おや、と思う。
「もしかして、可愛いって言われるの嫌い? 部室でも嫌がっていたわよね」
「嫌い、というか。あまり嬉しくはありません」
「どうして?」
「遠回しに、男らしくない、って言われてるようなものでしょう? ちょっと、傷付きます」
 黒須くんはそう言って目を伏せる。
「そういう意味じゃないわ」
 と否定はしたものの、黒須くんは男くささが全く感じられない、下手をすれば美少女と間違えてしまいそうな少年なので、「可愛い」を無理に悪く解釈すると「男らしくない」であるというのは強ち間違いではない気もする。しかし、傷付くなどと言われては肯定できるはずもない。
 口に出していない私の考えを見透かしたのか、黒須くんは苦笑した。
「いいですよ。気を遣わないで、はっきりとおっしゃってください。僕が軟弱な容姿だってことは――いいえ、性格だって頼りないって、自分でもわかります」
「そんな」
 軟弱だとか頼りないだとか、そんなことは思っていない。とても可憐で、とても無垢な、やはり「可愛い」と表すべき男の子なのだ、黒須くんは。しかしそう言われるのが好きでないという黒須くんにそれを言うわけにはいかず、どう表現したらいいものか考えた。そして。
「知り合ったばかりだけど、私は、黒須くんのこと、好きよ」
「え……?」
 私の言葉を聞いた黒須くんの目が僅かに見開かれた。私ははたと気付く。可愛いというのはプラスの意味である、ということをどうにかして伝えたくて思わず口にしたその言葉だが、好きだ、なんて、随分大胆なことを言ってしまったものだ。
「あ、いや。今のは告白とかそういうのじゃなく」
 慌てて付け加えると、黒須くんはくすっと笑い、「わかってます」と言った。
「ありがとうございます。僕のことをそんな風に言ってくださるのは、先輩だけです。もちろん、僕を気遣ってくださっただけだってわかってますけど……それでも、嬉しかったです」
 そう言うから、私は強く首を横に振った。
「違うわ、本当にそう思ったの」
 お世辞などではない。私は確かに、黒須くんのように綺麗で純粋な男の子が好きだな、と感じたのだ。
「先輩は、優しいですね。――僕も、先輩のこと、好きです」
 黒須くんははにかむように俯いて呟いた。それこそお世辞なのだろうが、私はきゅんとしてしまった。
 先程自分から、今のは告白ではない、と言ったばかりなのに。そんなことを言われたら、本当に好きになってしまいそうだ。
 それきり黒須くんは、この話は終わり、というように運転席の方へ顔を向けたので、私もときめきを胸の内に隠し、前に向き直った。
「あー……そういえば、黒須くんはどこでバス降りるの?」
 ふと思い付いて尋ねると、「A町三区です」という答えが返ってきた。どうやら、私の方が黒須くんより先に降車することになるようだ。
 私がバスを降りるまでには、二十分ほど時間がある。それまで、黒須くんともう少し話がしたい。
「黒須くん」
「はい」
「黒須くんは――」
 バスに揺られながら、私は黒須くんに語り掛けた。
 まだ、話したいこと、聞きたいことは沢山あった。