君までの距離 第一章 2


 あれから黒須くんと私は、静かな部室で二人、時折言葉を交わしながら、それぞれ読書と執筆に没頭していた。
 しばらく活動を続け、ふと、二時間は経った頃だろうと思い、ペンを動かす手を止めて腕時計を見た。時刻は六時の少し前だった。私はペンを置いて、黒須くんに声を掛ける。
「そろそろ終わろうか。いい? 黒須くん」
「はい」
 黒須くんは頷き、パタリと本を閉じた。
 私は筆箱にペンと消しゴムを仕舞い、原稿をクリアファイルに挟んで鞄に納めた。椅子から立って鞄を肩に掛け、机の上に置いていた黒須くんの入部届けを取り上げてから、部室の出入口に向かう。
「忘れ物、しないようにね」
「はい、大丈夫です」
 黒須くんと共に部室を出て、扉に施錠し、廊下を歩き出す。黒須くんは私の隣には並ばず、一歩下がった斜め後ろをついてくる。それは彼の控えめな性格の表れなのだろう。
「と、まあ、文芸部の活動は、基本的にこんな感じなわけだけれど」
 部室棟の廊下を真っ直ぐ進みながら、私は言った。
「どう? やれそう?」
「はい」
 最終確認の意味を込めて尋ねた私に、黒須くんは一切躊躇いなく答えた。
「これからも、先輩と一緒に活動をさせていただきたいです」
「そう。よかった」
 黒須くんの返事を聞いた私の口からは、自然とそんな言葉がこぼれた。
 ……よかった?
 発した言葉を反芻し、首を捻った。「よかった」。それは安堵の言葉に他ならない。卒業後の部の存続など興味はない、新入部員が来まいが知ったことではない――と考えていたはずなのだが、いつの間にか私の中には、黒須くんを逃がすのは惜しいという思いが湧いていたようである。
 そう考えながら部室棟を後にし、校舎に入る。私は下足室で足を止め、黒須くんを振り返った。
「私、鍵返してくるから。あと、顧問の先生がいたら、この入部届けも提出してくるわね。黒須くんは、先に帰っていていいわ」
 すると、黒須くんはすかさず、「僕も行きます」と言った。
「え? ああ、気、遣わないで。一人で大丈夫だから」
「いえ、先生がいらっしゃいましたら、僕もご挨拶をした方がいいでしょうし」
「真面目ね」
 私は笑った。黒須くんは「真面目」と表された意味がよくわからないらしく、小さく首を傾げる。
「わかった、二人で行きましょう。おいで」
 そう言って踵を返し、職員室に向かって歩き出した私の後に、黒須くんが続いた。
 廊下を少し歩いた先にある職員室に黒須くんを伴って入室すると、部屋の中には教職員だけでなく数人の生徒がいた。一斉に部活が終わるこの時間は生徒の出入りも激しいのだろう、先生方は新しくやってきた私達のことなどさして気に留めず、各々、作業を続けている。
「黒須くん、こっち」
 私は黒須くんを呼び寄せながら職員室の隅へ歩いていき、壁に掛けられたコルクボードに向き合った。コルクボードの左下、「文芸部」と書かれたラベルの下に取り付けられたフックに、キーリングを引っ掛ける。
「私が学校を休んだ時とかは、ここから鍵を取って、部室に入っていて。部活が終わったら必ず施錠をして、鍵は元の場所に戻すこと」
 私の説明を聞いた黒須くんは、「わかりました」と頷いた。すっかり頭から抜け落ちていたが、これは教えておかなければならないことだったから、ここに黒須くんを連れてきたのは正解だった。
 次に、私は室内をぐるりと見回して、文芸部顧問の先生の姿を探した。その人はすぐに見付かった。デスクの前で、立ったままノートパソコンを弄り、何やら難しい顔をしている三十代半ばほどの男性が、現国の教師で文芸部の顧問・常磐史仁ときわふみひと先生だ。
「常磐先生、お疲れさまです」
 側に歩み寄って声を掛けると、常磐先生はこちらに顔を向けた。
「おお、白妙。部活、終わったのか?」
「はい。鍵を返しにきました。それと、これ」
 私は手にしていた黒須くんの入部届けを、常磐先生に差し出した。
「何だ、これ」
 常磐先生はそれを摘まみ上げ、首を捻った。
「入部届け……? ――って、まさか」
 そこに書かれている文字を読んだ常磐先生は、驚いた目で私を見た後、私の隣に視線をスライドさせ、更に目を見開いた。そこで初めて、私が連れている少年の存在に気が付いたらしい。
「そう、彼が入部してくれたんです」
 私は黒須くんの細い肩に手を置いた。黒須くんは落ち着いた様子で口を開く。
「一年C組の、黒須千冬といいます」
「新入部員か!」
 常磐先生はぱあっと表情を明るくして、黒須くんの手を取った。突然手を握られて驚いたのか、黒須くんの肩がびくりと震えたのが私の掌に伝わった。
「いやあ、一年が入って本当によかった。このままだと来年は休部の危機だったんだよ。これから楽しくやっていこう。よろしくな、黒須!」
「あ……はい。よろしくお願いします」
 満面の笑みを浮かべてきつく手を握ってくる常磐先生に、黒須くんはちょっと戸惑ったようだ。元々あまり大きくない声を、なおのこと小さくしてそう答えた。
「そういうわけなので、常磐先生、これからは彼のこともよろしくお願いします。それじゃ、失礼しました」
 私がそう言うと、常磐先生はやっと黒須くんから手を離した。
「ああ。二人とも気を付けて帰れよ」
「さようなら」
 私は黒須くんの腕を引いて、職員室を後にした。
 廊下に出て扉を閉めたと同時に、黒須くんが、ふう、と息を吐いた。
「どうしたの?」
 溜め息にも似たその息を不思議に思い、尋ねると。
「いえ。少し、びっくりして」
「びっくり?」
「先生にあのように喜んでいただけるとは思いませんでしたので」
 私は常磐先生の喜びようを思い出して、「ああ」と笑った。
「私が入部した時も、文芸部には三年の先輩が一人しかいなくて、ね。常磐先生、あんな感じで喜んでくれたのよ」
「そうなんですか」
「そう。常磐先生は、文芸部の顧問を熱心にしてくださっているから。元々――十年くらい前には、青藍には文芸部はなかったんだけれど、異動してきた常磐先生が部員を募って始めたっていう話だし」
「なるほど……思い入れがあるんでしょうね」
「そういうこと。優しい先生だから、何かあったら遠慮なく相談するといいわ」
「はい」
 黒須くんは素直に頷いた。
「じゃ、お疲れさま、黒須くん。また明日、部活で会いましょう」
 用事も全て済んだので、私はひらひらと手を振って黒須くんに背を向けた。すると黒須くんは、歩き出した私を、「待ってください」と呼び止めた。
「何?」
 振り返った私に、黒須くんはこう続ける。
「先輩は、どなたかと帰られるんですか? ご友人と待ち合わせていらっしゃる、とか」
「いえ、一人で帰るけれど」
「でしたら」
 一拍置いて、黒須くんはこんなことを言った。
「僕と一緒に、帰っていただけませんか」
「え?」
 予想外の申し出に、私は目を瞬かせた。
 実のところ、私には、もっと黒須くんの人となりを知りたいという思いがあり、一緒に下校しながら色々とお話出来たらいいな、といった考えは浮かんでいた。しかし、それでは二学年も上の異性と歩くことになる黒須くんは居心地が悪いかも知れない。そう思い、誘いを口にするのはやめることにしたのだ。それがまさか、黒須くんの方からそう言ってもらえるなんて。
「あの……、嫌、ですか?」
 なかなか言葉を返さない私の顔を窺う黒須くんの瞳が徐々に不安の色を帯びてきたので、私は慌てて答えた。
「嫌だなんて、そんなこと。いいわ、一緒に帰ろう。私も黒須くんと話したいと思っていたの」
「ありがとうございます」
 ほっとしたように微笑んだ黒須くんは、やっぱり、とても可愛らしかった。