君までの距離 第一章 1


 春光うららかな、四月のある日の、放課後。
 私はいつものように部室に足を運び、書きかけの原稿を机に広げ、シャープペンシルを握っていた。
 両脇の壁には書架が並び、中央には二台の長机と四脚のパイプ椅子が置かれた、殺風景な空間。そんな部室で、窓から差し込む柔らかな日の光を受けながら執筆に打ち込むのが、私は好きだった。
 青藍せいらん高等学校、文芸部。
 昨年に引き続き、今年も私が唯一の部員で、部長だった。私が一年の時には三年の先輩が一人いたのだが、その先輩がいなくなってからは、ずっと私一人で活動している。
 四月半ばという、新入生が少しずつ学校に慣れてくるこの時期。人気のある部活では続々と部員が増える頃だが、文芸部の門を叩く一年生はまだ一人として現れない。
 今年新しい部員が入らなければ、来年、文芸部は間違いなく休部となる。しかし私は他の部のように勧誘に勤しむことはなく、ただひたすらに自分の原稿と向き合っていた。
 私は、自分が青藍に在籍する間、文芸部という居場所があればそれでいいと思っている。卒業後、部がどうなろうと構わなかった。
 先輩と活動した半年間の楽しかった記憶を、後輩に伝えたいと思わないわけではない。精一杯打ち込んだ部活が私の代で途絶えてしまうのは、少なからず寂しい。だが、活字離れが進むこのご時世、文芸部に入りたいと思う生徒がいないのだから仕方がない。
 本が好きな生徒が一人もいないはずはないだろうけれど、そういう生徒は、文芸部に所属せずとも、自分の好きな時間に読んだり書いたりしているのだ。読書も執筆も、文芸部に入部しなければできない活動ではない。それも、部員が増えない理由の一つなのだろう。
 そんなことを考えつつ黙々とペンを走らせていた、その時だった。
「あの……すみません」
 どこからか、か細い声が聞こえた。
 原稿から面を上げ、その声のした方向を見ると、いつの間にか扉が開いていて、そこには一人の少年が立っていた。
「文芸部って、ここですか」
 小さな声で尋ねる彼は、存在感が希薄で、儚げな印象を与える子だった。華奢な身体を包む制服は真新しく、彼が新入生であることはすぐにわかった。
「ああ、はい、そうです。文芸部です」
 私は椅子から立ち上がり、眼鏡のツルを中指で押さえてそう答えた。
「すみません。ノックはしたんですが、気付かれなかったようなので……」
「そうなの? ごめんなさい、聞こえなかったわ」
 そう言いながら彼に歩み寄り、彼の姿を間近で瞳に捉えた私は、思わず息をのんだ。
 長い睫毛に縁取られた、ぱっちりとした大きな目が印象的な、甘いマスク。透き通るような白い肌に、品よく整った形のいいパーツが絶妙な配置で納まった、まるで人形のようなその顔は、ぞっとするほど美しかった。大袈裟でも何でもなく、こんな綺麗な男の子がこの世にいるのか、と思い、私はその並外れた美少年に見入ってしまった。
 彼は自分を凝視する私を真っ直ぐ見返し、「あの」と口を開いた。
「入部を考えているんですが、いいですか」
「えっ、入部希望なの?」
 目を丸くして尋ねると、彼はコクリと頷いた。
 驚きのあまり、私は十数秒の間言葉を失った。入部希望者が現れるなんて、ほとんど諦めていたことだ。願ってもない展開に、胸が高鳴る。
「とりあえず中に入って」
 ひとまず私は、彼を部室に招き入れることにした。
「失礼します」
 彼は礼儀正しく一礼して、室内に足を踏み入れる。
 彼を部室に入れた私は再び席に着き、広げていた原稿を畳んで脇に寄せた。一方、彼は立ったまま物珍しそうに辺りを見回している。
「適当に座ってね」
「あ……はい」
 声を掛けると、彼は二度目の「失礼します」を言い、私の向かい側の椅子に腰を下ろした。彼と向かい合わせになった私は、早速彼に問い掛けた。
「君、本当に文芸部に入りたいの?」
「はい」
「書く方? 読む方?」
「どちらもできたらな、と……思っています」
「文芸部は今、部員は私しかいないの。他に部員が入らない限り、私と二人で活動することになるけど、それでもいいのね?」
「構いません」
 矢継ぎ早に投げ掛けられる質問に、彼は落ち着いた口調で淡々と答え、「入部させてください」と頭を下げた。
 そのしっかりとした態度に好感を抱き、私は微笑んで首を縦に振った。
「わかったわ。文芸部へようこそ」
 私がそう言うと、彼はきゅっと引き締めていた口元を、僅かに緩めた。注意深く見ていなければわからない微かな変化だが、それはほっと安堵したような表情だった。冷静に見える彼だが、彼なりに緊張していたのかも知れない。
 私は席を立ち、部室の隅のキャビネットから藁半紙を一枚取り出して、彼の目の前に置いた。B5サイズのその紙の上部には「文芸部入部届」と印字されている。
「これ、入部届け。書いてくれる?」
 彼にシャープペンシルを手渡す。彼は白紙の入部届けに、学年とクラス、そして氏名を記入した。
「書けました」
「ありがとう。ええと、黒須くろす……千冬ちふゆくん?」
 彼から入部届けを受け取った私は、丁寧な筆致で記された名前を、確認するように読み上げた。彼――黒須くんは「そうです」と頷く。
「私は部長の白妙翼しろたえつばさ。これからよろしく、黒須くん」
「よろしくお願いします、白妙先輩」
 先輩。その響きがくすぐったく感じた。今まで部活に後輩というものがいなかったので、下級生に先輩と呼ばれるのは初めてだった。
 私は照れ臭さを隠し、努めて冷静を装って続ける。
「それじゃ、棚の本は自由に読んでくれていいから。何か書くなら、メモ用紙も原稿用紙もあるわ。そのキャビネットを開けて取っていって」
「わかりました。……あの、持ってきている本を読んでもいいですか?」
「もちろん」
 私が頷くと、黒須くんは鞄から一冊の文庫本を取り出した。
「『こころ』?」
 私はちらりと見えた表紙に書かれたタイトルを口にした。
「はい。もう何度も読んでいるんですが、やっぱり好きなので、また読みたくなって持ってきたんです」
 黒須くんが最初のページを開いて読書を始めるのを見届けてから、私は脇に寄せていた自分の原稿を引き寄せ、執筆を再開した。
 それからは、しばし無言の時が流れた。シャープペンシルの芯が紙を引っ掻く乾いた音が絶え間なく鳴り、時折、黒須くんがページを捲る音が響く。
「先輩」
 不意に、沈黙を破って、黒須くんがぽつりと私を呼んだ。
「ん?」
 顔を上げると、黒須くんは私の手元を見つめていた。
「先輩は、何を書かれているんですか?」
「これ? 小説だけど」
「どんなお話ですか?」
「ファンタジー、って言ったらいいのかしら。私が書くのって、児童文学とかなのよね」
「児童文学ですか。素敵ですね」
 素敵、と言われて、私は素直に嬉しく思った。友人にはいつも「子供っぽい」と笑われていたから、尚更。
「いつか、読ませていただけませんか」
 黒須くんは、社交辞令という感じではなく、澄んだ瞳で私を見て言った。
「ええ。大したものじゃないけど、それでもいいなら」
「楽しみにしています」
 そう言って、黒須くんは口元に控えめな微笑を浮かべた。
 それを見た私は、思わずこう口を開いた。
「黒須くんって、さ」
「はい」
「黙っていても綺麗だけど、笑うと可愛いわね」
「え?」
 黒須くんは初めて外国語を耳にした子供のようにきょとんとした。そのまましばらく口を半開きにして固まっていた黒須くんだが、やがて私の言葉の意味を理解できたものと思われる。瞳を揺らし、ぎこちない動きで顔を伏せた。
「……からかわないでください」
 俯いた黒須くんは、絞り出すように、掠れた声を発した。前髪の隙間から覗く顔は微かに赤らんでいた。
 そのウブな反応に、私は笑いが込み上げてくるのを感じた。少なくとも私のクラスのすれた男子生徒達は、一人としてこんな初々しい反応はしてくれない。
「あの……どうして笑っているんですか?」
 私の忍び笑いを察知した黒須くんが、下を向いたまま言う。
「いや、黒須くんの反応、何か可愛くて」
 私は込み上げる笑いを堪えながら言った。
「馬鹿にしないでください」
 黒須くんは面を上げ、ふるふると肩を震わせている私に、抗議するような視線を投げてきた。その顔がまた可愛くて、とうとう我慢出来なくなった私は大口を開けて笑った。
「黒須くん、いい、可愛いっ……!」
「その、可愛い、っていうの、やめてください」
「可愛いものは可愛いんだから仕方ないじゃない。もちろん、誉め言葉よ。初々しくてよろしい」
「嬉しくありません」
 黒須くんはけらけらと笑い続ける私を不満げに眺めた後、小さく溜め息を吐いてふいと顔を背けた。
「……もう、いいです。好きなだけ笑いものにすればいいじゃないですか」
 拗ねたように言って、読書に戻る黒須くん。
「ごめんごめん」
 私はひとしきり笑うと、目尻に浮かんだ涙を指先で拭って謝った。
 一年生とは、こんなに可愛いものなのか。いや、一年生全般ではなく、黒須くんだから可愛いのかも知れない。何にせよ、これから黒須くんとは楽しくやっていけそうな予感がした。
 からかわれた方の黒須くんは、どう思ったかは知らないけれど。