光の旋律 第四章 おはよう


 翌朝、私は身に余る大きなベッドの上質な布団の中で目を覚ました。
 昨夜オーガストさんにここへ押し倒された時はドキッとしたものだが、勿論この一晩、オーガストさんが私に何か仕出かすような気配はなかった。そもそも私に男性から手を出される魅力など備わってはいないのだ、オーガストさんには何の毒にもならないだろう。あの時一瞬警戒してしまったのが自意識過剰で恥ずかしい。
 ベッドを抜け出し、この客室備え付けのバス・トイレットルームへ行って洗面を済ませる。身嗜みを整え終えると、私は部屋の隅で朝のお祈りを始めた。
 今日も一日、穏やかに、正しく過ごせますように。
 二十分程度のお祈りを終えてから、ソファで眠るオーガストさんの様子を見に行く。オーガストさんは小さく口を開けて仰向けで眠っていた。昨日も思ったのだが、オーガストさんの寝顔は、いつもの大人びた色気のある表情と打って変わってあどけない。その少年のような無垢な寝顔に胸がことんと高鳴る。
 まだ六時にもならない時間だ、今揺り起こす必要はない。私はソファから離れて部屋を出た。部屋の外では給仕さんが慌ただしく行き交っていた。
「あら、おはようございます。えっと……フィーユさま、でしたね」
「ごきげんよう。何かお手伝いさせていただけることはございませんか?」
 そう声を掛けると、給仕さんは強く首を横に振った。
「とんでもない、お客さまにそんなことをさせたら私達が叱られてしまいます。後で朝食をお持ちしますので、それまでごゆっくりお休みになっていてください」
「そ、そうですか……申し訳ありません」
 これまではシスターとして、最近は旅の仲間の為に朝から調理や掃除をしていたので、することがないのはちょっと手持ち無沙汰で寂しい。しかしお手伝いはさせてもらえそうにないので、私はすごすごと部屋に逆戻りした。
 椅子に腰を下ろし、体勢を変えることなく寝たままのオーガストさんを見つめる。早くオーガストさんが目覚める時間になってほしいな、と思った。


 それから、お役目がないことで無性に長く感じられる時間も少しずつ流れ、午前八時の少し前になった。そろそろオーガストさんを起こそうかと思っていた時、部屋の扉が控えめにノックされた。
「フィーユさま、オーガストさま。朝食をお持ちいたしました」
 給仕さんが部屋に食事を運び入れる。パン、オムレツ、サラダ、スープ。私がよく朝食に用意するメニューとほとんど変わらないが、流石は王宮お抱えのシェフが作ったご馳走。素材の質と調理技術のレベルが違うのが一目でわかる。とても美味しそうだ。
「では、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
 去っていく給仕さんを見送り、オーガストさんを起こすことにする。
「オーガストさん、お目覚めになってください。朝食をいただけますよ」
「……んー」
 そっと肩に触れ、揺り動かす。オーガストさんは小さく呻いて頬を掻き、ゆっくりと目を開けた。眠そうな顔でぼんやりと私を見つめた後、上体を起こす。
「もう朝か?」
「ええ。今ご飯を持ってきていただきました。一緒に食べましょう」
「ああ」
 オーガストさんは大きな欠伸をしながら洗面所へ向かっていった。私はテーブルの隅で一纏めになっているカトラリーを、すぐ食事を始められるようにセッティングする。やがて戻ってきたオーガストさんは、寝癖の付いた頭をがしがし掻きながら席に着いた。
「いただきます」
 私は手を合わせてからサラダを口に運んだ。
「これ、あんたが作ったやつじゃないよな?」
 食材をいつものように大口で頬張るオーガストさんがふと顔を上げる。
「ええ、王宮の方が作ってくださったようです。私の料理などとは全然違いますね」
 私はその味に感動すら覚えていたのだが、オーガストさんは思いもよらないことを言った。
「俺はあんたの料理の方が好きだな」
 驚いて、口に含んでいたスープが気管に流れ込みそうになった。
「ま、まさか。私にお気を遣わなくてよいのですよ」
「気? 思ったこと言っただけだ。何か変か?」
 オーガストさんは本気の目をしていた。確かにオーガストさんがわざわざ社交辞令を言うような人ではないのは何となくわかるが、それにしても。
「ええと……ありがとうございます」
 かなりびっくりはしたが、勿論嬉しくないわけではなかったので、私は恐縮しながらお礼を述べた。



 昼前になるとリヒトさんとグレイシアさんがやってきて、すっかり馴染んだこの四人でレゼルを出立することになった。
「おはようございます、フィーユさん。準備はよろしいでしょうか」
「ええ、私は大丈夫です」
 レゼルを出るのは、私の記憶にある限り初めてのこと。不安もあるが、この仲間なら何があっても大丈夫だと思える。
 この仲間なら。いや、それも間違いではないが、本当はオーガストさんが傍にいてくれることが大きいのかも知れない。いつの間にか、私の中でオーガストさんはとても特別な存在になってしまっているらしい。
「どうした?」
 隣を歩くオーガストさんが、私の視線に気付いてこちらを見る。
「いえ」
 オーガストさんが傍を離れずにいてくれるのは、私が恩人だから。恩を返さなければならないから。今も、その想いだけ、なのだろうか。
 そう考えて何故か胸に切ない風が吹いた。その感覚に戸惑いながら、私は気付かれないようにオーガストさんの服の裾を摘まんで歩いた。