光の旋律 第四章 おやすみ


 ――オーガストさん。
 ――オーガストさん、楽な格好でお休みになった方がいいですよ。
 そんな女の声に目を開くと、いつかと同じように女が俺の傍らに膝をついて俺の顔を覗き込んでいた。
「……女?」
「ごめんなさい、ぐっすりお休みでいらっしゃったので申し訳ないとは思ったのですが、その格好では苦しそうなので、つい」
「いや、ありがとう」
 俺はソファから身を起こし、女が差し出す俺のTシャツとジーンズを受け取ってタキシードを脱ぎ始めた。不慣れな厚着から開放された身体が楽になっていくのがわかる。見れば、女も先程までの豪華なドレスではなく見慣れた修道服を身に纏っていた。
「俺、どのくらい寝てた?」
「二時間くらいでしょうか。そう言えばオーガストさんがお休みの間、グレイシアさんがお見えになりましたよ。お話を聞かせていただきたいとのことです」
「ふうん。まあもうこんな時間だしな。明日でいいだろ」
 Tシャツに袖を通し、ラフな格好になったところで、俺は部屋の隅のベッドへと歩いていった。
「おやすみなさい、オーガストさん」
「ああ、おやすみ」
 女の挨拶に頷いて布団に潜り込もうとして、ふと疑問が湧き上がった。
「あんたはどこで寝るんだ?」
 この部屋のベッドは二人以上が容易く眠れる相当大きなものだが、一つしかない。振り返ると、女は曖昧な微笑みを俺に向けて黙り込んでいる。俺がベッドで寝るのを見届けてからソファででも寝る気だったのだろう、と悟り、俺は女に歩み寄った。
「あんたをソファに追いやって俺一人で寝られるわけないだろ。あんたは女なんだ、ちゃんとベッドで休め」
「でも」
「俺は平気だ」
 まだ躊躇っている様子の女の肩を掴み、俺は女をベッドに押し倒した。
「えっ、お、オーガストさん……!?」
 俺に組み敷かれた女は目を丸くする。
「ここで寝ろ。いいな」
 硬直している女から離れ、俺はソファに身を横たえた。
「あ、あの……ありがとうございます」
「気にするな」
 再びソファで目を瞑るが、先程より眠気が覚めていて、すぐには眠れそうになかった。
「なあ、女」
「はい」
「少し話してもいいか?」
「ええ、勿論です」
「あんたにはまだ言ってなかっただろ。……あの日、俺が傷だらけだった理由」
 そう前置きして、俺は女との出逢いを少しだけ遡って語り始めた。


 その日、俺はいつものように縄張りの見回りをしていた。
 俺はシャチに似た尾びれが特徴のオルカ族の生まれである。協調性に優れるとされる一族では珍しく、俺は昔から人付き合いが苦手な性格だったので、いつも群れから少し離れた場所でできることを探して行動していた。仲間はそんな俺に理解を示し、無理に輪の中に引き込んだりせず、俺のペースを尊重してくれている。それがありがたかった。だから俺は、この群れを愛している。
 縄張りの最北まで泳ぎ、異常がないことを確認して引き返そうとした時、俺の上に影が落ちた。
(……船か)
 そう思った瞬間、頭上から大きな網が降ってきた。網は俺の全身を包み込み、驚く間もなく俺を海上に引っ張り上げる。
「こりゃ当たりだ。相当綺麗な男が釣れたぞ」
 引き上げられた俺を目にした、その網の主である人間の男は愉快そうに笑った。
「何のつもりだ」
 自由を奪われた身体で、俺は男を威嚇する。
「亜人はその筋のルートじゃ高値で売れるんだよ。意味はわかるだろ?」
 俺を売り飛ばす気か。
 逃げ出す隙を窺おうとしていた時、脇腹に激痛が走った。見ると、男が俺にナイフを突き立てていた。
「殺されたくなけりゃ大人しくしてな、兄ちゃん。大丈夫、お前くらい綺麗な奴なら金持ちが可愛がってくれるさ」
「……この」
 俺は無理矢理網を引き千切った。食い込んだ繊維が俺の身体に傷を残す。
 逃げた方がいいのだろうが、このままでは俺以外の人魚にも手を出そうとするかも知れない。俺は男の腕を掴んで海に引きずり込んだ。
「うわっ」
 溺死までさせるつもりはない。海中では俺の方が何倍も有利だ。少し水を飲ませて脅かしてやればこいつは逃げ帰るだろうと、そういう考えだった。
 ナイフを持った男が暴れ、俺の身体を何度も切り裂く。それでも手を離さずにいると、溺れる寸前の男は「許してくれ」と情けない声を上げた。
「二度と来るなよ」
 船に上がった男は真っ直ぐに逃げていった。何とか退けられたようだ。
 気が付くと、俺の周りの海水は俺から滲み出た血液で真っ赤に染まっていた。先程までは無我夢中だったが、失血のショックが今訪れてきたようで、俺の意識は遠退いていった。
 そのまま、波に身を委ねて目を閉じる。
 この出来事から女と出逢うことになるなど、その時の俺は思ってもいなかった。


「そんなことが……」
 俺の話を聞き終えた女が悲しげに呟く。
「まあでも、そのお陰であんたに出逢えたわけだしな。何があるかわからないもんだ」
「……オーガストさんがご無事でよかったです。あの時海岸まで行ってよかった……」
「だから今度は俺があんたを守る」
 そこまで話すと、俺には眠気が戻ってきた。俺は一つ欠伸をして、目を閉じた。
「また明日な」
「ええ、おやすみなさい」
 女と出逢えた今を、俺は大切に思っている。これから先も女と共にありたい、と思う。
 しかし、それが恋情と呼べるものなのか、俺にはまだよくわからないのだった。