光の旋律 第一章 迫り寄る影


 グレイシア教官との合同訓練は自主練の何倍も体力を消耗し、俺は地に膝をついて乱れた呼吸を整えた。
「そろそろ昼食にするか」
「そ、そう、ですね」
 すっかり上がった俺の息に、グレイシア教官が笑う。
「まだまだ未熟だな、リヒト」
「すみません、精進します」
 上司でありながらも、仮にも女性であるグレイシア教官は、額にうっすらと汗が窺える程度だというのに。面目ない。
 汗まみれの顔を拭い、地に突き立てた剣を支えにして立ち上がる。
 シャワールームで汗を流して部屋に戻ると、相部屋のオーガストさんはベッドに寝転がっていたが、眠っているわけでもなかったようで、上半身を軽く起こして退屈そうな瞳をこちらへ向けた。
「よう、半人前。昼飯ならそこに出てるぞ」
「あ、どうも」
 その言葉通り、テーブルには、一人分の料理が用意されている。
「美味しそうですね。いただきます」
 フィーユさんの作った料理はとても美味しい。俺は空いたお腹を満たすべく、夢中で頬張った。



 日が傾いて、空が橙色に染まる夕刻。
(平和だなぁ)
 俺は宿屋の近くをうろうろと散歩しながらそう思っていた。危険を伴うとされる任務など忘れてしまうような穏やかな時間が、この仲間の中には流れている。
 新米の騎士としては、憧れのグレイシア教官とお近付きになれただけで嬉しいし、フィーユさんとオーガストさんもいい人だ。思わずほのぼのとした気分になり、気を抜いてしまう。
 それに何せレゼルは長年事件らしい事件もない「安寧の国」だ。騎士になったばかりの俺には、まだ任務をこなした経験もないのだから緊張感が不足するのも仕方のないことかも知れない。
「本当に争いなんて起きるのかな。どう思う?」
 丁度さえずりながら俺の隣に降り立った小鳥に話し掛けてみると、小鳥は俺を見上げてちょこんと小首を傾げた。
 その時。
「すみません、ちょっといいですか?」
「はい?」
 背後から話し掛けられ、俺は振り返った。俺の大きな動きに驚いた小鳥が、翼を広げて夕空へと飛び立ってゆく。
 振り返った先には俺よりいくつか年上であろう男性が一人いて、彼は俺に柔和な微笑みを向けてきた。長い黒髪を胸元で緩く結いて、どこか中性的な雰囲気のある美しい人だった。
「お呼び止めして申し訳ありません。一つ伺ってよろしいですか?」
「あ、はい」
 シンプルな黒のロングコートが、紅色の裏地を覗かせながら風に靡く。そんな服を身に纏った彼は、帯剣している。レゼル聖騎士団で見知った顔ではないので、他国の剣士だろうか。
「レゼルの騎士さまですよね?」
「ええ、まあ」
「では、少々――」
 そう言って、彼は素早く抜刀した。
「お相手してくださいませんか」
 瞬間、俺の頭上を鋭い剣筋が走り抜ける。
「うわっ」
 寸でのところで俺はその斬撃をかわしたが、情けないことに予測して避けたのではなく、唐突な攻撃に驚いて腰を抜かしただけだった。よろけて体勢を整えられずそのまま尻餅をついた。
「な、何ですかっ!」
「ふーん。つまんねえなぁ。レゼルは余程の人材不足と見える。この程度の男が騎士か」
 彼は先程の穏やかな雰囲気と打って変わって、優しかった瞳に妖しく光を宿して、口元の笑みは嘲るようなものに変化していた。
「悪く思うな。恨むなら、その程度の腕で騎士として受け入れやがった王宮を恨むんだな」
 そう言って、彼は剣を振り上げた。
(まずい……!)
 やられる、そう思って目を瞑ったその時だ。
「そこまでだ!」
 聞き覚えのある凛とした声が響いて、恐る恐る目を開ける。そこには彼の腕を掴んで捻り上げるグレイシア教官がいた。
「私の部下に手を出すようなら容赦はせんぞ」
 毅然と言うグレイシア教官は俺達の前に現れるまで気配もしなかった。流石は女性騎士筆頭だ、と、俺は自らの危機も忘れて目の前の光景に感動してしまった。
「痛ぇ。何だアンタ、女騎士か?」
 彼はグレイシア教官の手を振り払うと、にやりと笑った。
「へえ、いい騎士もいるじゃねえか。悟られずに俺の右手を掴むとはなぁ」
「私が相手をしてやろう。来い」
 グレイシア教官が剣を抜いて威嚇する。
「今日はこれで切り上げてやるよ。アンタほどのいい女なら、後々の楽しみになりそうだ」
「逃げる気か、貴様」
「ああ、その通りだ」
 隙をなくすまでじりじりと距離を取った彼は、身を翻して走り去っていった。
「それなら最初から仕掛けるな、腰抜けめ」
 呟いたグレイシア教官は、俺に目を向けると、声を張り上げた。
「リヒト、無事か!?」
「は、はいっ」
 グレイシア教官は、立ち上がった俺を見て安心したように息を吐いたが、すぐにキッと目をつり上げて俺の元まで来ると、ぐいっと胸倉を掴んで揺さぶってきた。
「何をしているんだっ、真正面から挑まれたっていうのにあんな隙だらけで! 私が来なかったらどうするつもりだったんだ! お前の実力は本来そんなものじゃないだろう!?」
「すみません、すみません! 油断してました、反省してます!」
「新米だろうが何だろうが、お前はもう騎士なんだ! いつまでも士官学校の学生気分じゃいられないんだぞ!」
「仰る通りですっ、本当に申し訳ありません!」
 俺は平身低頭してひたすら謝り続けた。グレイシア教官は怒りが引いていくのに合わせるようにゆっくりと手の力を緩めた。縮こまっている俺を開放すると、優しく俺の頭に手を置く。
「まあ、無事で何よりだ。私も新人の頃は、先輩に幾度となく守られてきたからな。今回の失敗をちゃんと糧にするんだぞ」
「はい……」
 しかし、突然の襲撃に俺の心臓はバクバク鳴り響いている。全く余裕がないのが情けない。グレイシア教官はこんな修羅場を数多潜り抜けてきたというのか。
「それにしても、あいつ」
 彼が消えた方角に目を向け、グレイシア教官は考え込むように顎に手をやった。
「気のせいじゃないよな」
「何がです?」
 尻餅をついた時に付いた土埃を払いながら聞くと、グレイシア教官は言った。
「よく聞けリヒト。まだこれは私の憶測の範疇を出ないが、あいつこそ、我々が警戒すべきダヌアからの刺客の一人だ」
「えっ?」
 思いもよらない見解に、思わず素っ頓狂な声を上げた俺。
「あいつの持っていた剣。あれはダヌアの剣だと思われる」
「そうなんですか?」
 俺は全く気付けなかったが、グレイシア教官が言うからには、そうなのだろう。ダヌアの剣は、レゼルで多く使用されているものより刀身がやや太く長いという特徴がある。
「初日から、しかもよりによってリヒトが一人の時に絡まれるとはな。私も油断していた」
「とんでもない。俺こそただの足手纏いになってしまったようで、申し訳ありません」
「いや、いい。明日からは、今日以上にみっちり扱いてやるからな。私は、お前の腕がこの程度だとは思っていないぞ」
「はい!」
 でも。
 見込まれたのは光栄ではあるが、初めての敵との邂逅に、これが未熟な俺などに遂行できる任務なのだろうか、という不安が再び湧いてきたのも確かなことだった。