光の旋律 序章 Case.04 Mermen


 ああ、失策してしまった。
 意識が遠退いてゆき、俺は波に身を委ねて目を閉じた。
 どうしてこんなことになったのかは割愛する。何故って、俺自身、この状況を全て理解できてはいないからだ。
 とりあえず、突然の襲撃に一人で立ち向かったのは本当に馬鹿だったな、と薄れゆく意識の中でぼんやりと思った。


 気が付くと俺は海岸に身を投げ出されていた。照り付ける太陽が尾びれに痛いが、それ以上に、身体にできた傷が痛む。
「人魚さま、大丈夫ですか!?」
 不意にそんな声が耳に届いた。
「誰だ……?」
 ゆっくりと目を開く。そこには人間の女が一人いて、俺の傍らに膝をつき、こちらに心配そうな目を向けていた。
「麓の教会の者です。いけません、血が……!」
「放っておけ……この程度何でもない」
 言葉とは裏腹に、ずきずきと痛む傷。けれど、そんな弱みをこの女には悟られたくなくて、俺は舌打ちを一つして、身を翻して海へ飛び込んだ。
 海水が傷口に染み、意識が冴え冴えとする。
「くそっ……」
 こんな姿で群れに戻るわけにはいかない。俺は適当に時間を潰そうと、痛みを抱えたまま当てもなく泳いだ。



 翌日、俺は岸に上がり、岩場の陰でこっそりと傷を癒していた。
 ふう、と一つ息を吐く。
 人魚は元来、人間より丈夫にできている。深々と突き刺された傷も、今では軽い切り傷くらいにまで回復している。
「あっ」
 聞き覚えのある声がして振り返ると、そこには昨日会った女が立っていた。
 弱みを晒すのは御免だと、俺は海に逃げ込もうとした。しかし。
「待ってください人魚さま!」
 女が俺の腕を掴む。そして。
「きゃっ」
 ごつごつとした岩に足を取られた女がぐらりと倒れてきたので、咄嗟に腕を回して抱き留めた。
「何やってんだ、あんた」
「すみません、ありがとうございます」
 体勢を整えた女は恥ずかしそうに、俺に何度も頭を下げた。
 女は、丈の長い深いグレーのワンピースを身に纏い、ワンピースと同じ素材でできたヴェールを頭に被るという、露出の極めて少ない格好をしていた。その服装から見るに、シスターというやつだろうか。
 俺の肌が褐色であるせいもあるだろうが、女の肌は透き通るように白く見えた。どちらかというと華奢だが、細過ぎはしないし、抱き留めた時の身体は健康的に柔らかかった。何にしろ、清楚で可憐な印象の女である。
「それより、あなたのお怪我は大丈夫ですか」
 そんな女は俺の傷にそっと手を伸ばし、「医療魔術の心得がございます」と言って小難しい呪文を唱えた。すると、たちまち俺の傷跡はすうっと消えていった。俺は驚きに目を瞠る。
「な、あんた……」
「どうでしょうか?」
「……まあ、礼は言う」
「よかったです」
 女は嬉しそうに微笑んだ。それに対して、俺はどう反応していいのかわからず、打ち寄せる波に視線を逃がした。
「何があったのか、伺ってもよろしいですか?」
「別に何でもない」
 それだけ言うと、俺は昨日と同じように、海に飛び込んだ。
(…………)
 しかし、このまま借りを作っておくのは主義に反する。俺は女を振り返って言った。
「おい女」
「はい?」
「この恩は忘れない、一応な」
「は、はい……? あ、いえ、私は大したことはしていませんよ」
「それでも俺が助けられたことに変わりはない。だから、ちょっとそこら辺に座って待ってろ」
 そう言い残して、俺は海深くに潜っていった。


「おい、魔女」
 深海の洞穴の前で、俺は声を張った。
「人間に姿を変える薬とやらがあったな。それを貸せ」
 すると、くすくすという笑い声と共に、女性が一人現れた。
「あらあらオーガスト、人間に惚れたの?」
「断じて違う。恩を返したいだけだ」
「まあ、そうかしら? あなたを助けてくれたのって可愛い女の子じゃない。あなたもちゃんと男なのね、って、すっかり安心していたところなのだけれど」
 この女性は人魚の間では有名な魔女だ。全てを見通すと言われている水晶に手を翳して、ふふふと含み笑いをしている。魔女には先程の出来事はお見通しらしい。それが癪に障った。
「無駄口を叩くな。いいから寄越せ」
「それが私に物を頼む態度かしら。本当あなたは礼儀がなってないわよね。それで? 対価はどうするつもりかしら?」
「帰ってきたら俺ができることなら何でもする。急いでるんだ、早く寄越せ」
「後払い宣言とはいい度胸ね。まあいいわ、あなたのお父さまとお母さまにはお世話になったし、特別にタダで貸してあげる」
 魔女はどこからともなく薬の入った小瓶を取り出し、俺に手渡した。
「もらっていくぞ」
「はいはい、いってらっしゃい」
 手を振って俺を見送る魔女の元を、俺はろくに礼も言わず泳ぎ去った。



 そうして人間の身体を手に入れた俺は、何やら旅に出ることになったらしい女の護衛の代わりとして同伴することにしたわけだが、女はともかく同行するもう一人の女――石頭とは相性が悪そうである。
「我々の当面の目標は意思疎通が図れるよう絆を深めることだ。しばらくはこの宿所で寝食を共にするぞ」
 辿り着いたのは小さな宿屋だった。
「そういうわけで、フィーユさんと私、リヒトとオーガストは同室だからな」
「冗談じゃない。俺は女に恩を返しにきたんだ。馴れ合う気はない」
 俺が抗議すると、石頭は「異論は認めんぞ」と言い残し部屋に引っ込んでしまった。追い掛けて文句を続けようとした俺に女が言う。
「ええと……そう、オーガストさんは私を守ってくださるのでしょう? この旅は先も長いです、それまでリヒトさんとも仲良くしてくださいね」
 他でもない女の頼み。俺は渋々「あんたが言うなら」と承諾した。
「よろしくお願いします、オーガストさん」
 微笑みを向けてくる半人前に、「ああ」と短く答えた俺は、部屋に入って椅子に腰を下ろす。
「流石に少し疲れたな。そりゃ女はしんどかっただろうな」
「そうですね」
「半人前、お前と石頭は騎士なんだろう? このくらい平気なのか」
「あの、その『半人前』とか『石頭』っていうのやめていただけません?」
 ずっと引っ掛かっていたのであろう、半人前がそう言ってきたが。
「俺は人の名前を覚えるのが苦手だ」
「……そうですか」
 取り付く島もない俺の返答に、半人前はすぐに諦めたようだ。向かい側の椅子に座り、じーっと俺を見てくる。
「何だ?」
「あ、いえ、オーガストさんって逞しいよなって思って」
「そうか? 別に鍛えているわけでもないがな」
「ええー、ナチュラルでその体格なんですか……羨ましいなぁ」
「お前だってそれなりだろうが」
 半人前は、上品な金色の髪と緑の瞳がいかにもお坊ちゃんっぽいが、一応騎士となるだけあってか、その体躯は意外と逞しい。
「俺、筋肉つきにくい体質なんですよ。背も高くないし……。士官学校時代も、いくら鍛錬しても同級生に追い付けなくて困ってたんです」
「ふうん」
 いつの間にか、俺は半人前と会話をしていた。
 それが楽しいのか楽しくないのかはよくわからないが、決して居心地の悪い感覚ではなく、この旅も案外悪くはないのかも知れない、と少しだけ思ったのであった。