heavenly blue 第三章 契約の誓いを


 翌朝目を覚ますと、凪さん(小)が隣で寝息を立てていた。
 この幼い凪さんを部屋の隅に追いやることは憚られたので、昨夜はシングルベッドで二人、ぎゅうぎゅう詰めになりながら寝たのである。
 私が上体を起こすと、凪さんはぱちりと目を開けた。
「あ、おはようございます」
「……朝?」
「ええ」
「眠い……」
「まだ眠っていても構いませんよ。私は起きますけれど」
「そう」
 私がベッドを出ると、凪さんは一人で快適に睡眠を取り始めた。どうやら、睡眠欲が旺盛なのはこの頃かららしい。
 さて、今日は日曜日。特に予定のない休日だが、私は欠伸を噛み殺して部屋を出、洗面をしに一階へ下りた。


 着替えをしてご飯を食べて、十時頃に部屋に戻ると、ようやく凪さんも目を覚ましていた。
 ベッドの上でぼんやりと過ごす凪さんに。
「凪さん。お暇でしたら、今日は公園にでも行きませんか?」
 何気なくそう提案してみると、凪さんは「ん」と頷いた。
「今は桜が綺麗ですし、楽しみですね」
 こうして、午後の予定が決まったのであった。


 最寄りのバス停から大きな公園の前まで着くと、凪さんは、歩く私の背後をふよふよと浮遊しながら付いてきた。
「これが、桜?」
「ええ。まだ満開ではありませんけれど、綺麗でしょう?」
「ん」
 私は桜味のソフトクリームを買って、凪さんに手渡した。
「美味しいですか?」
「……うん」
 無表情ながら、心なしか嬉しそうにソフトクリームを舐める凪さんはとても可愛らしかった。
「時雨志麻」
「はい?」
「君も食べる?」
「え、いいんですか?」
「うん」
 差し出されたソフトクリームを一口だけもらう。甘くて冷たくて仄かに桜の香りがして、幸せな気持ちになる。春を感じた。
 そうして二人、のんびりと過ごしながらも、気になるのは凪さんのことだ。
「ところで、凪さんはどうしたら元の時間に帰れるんでしょう? 元の凪さんも今どこにいるのか――心配ですね」
「さあ……」
 そう言いつつも、凪さんには何となく心当たりがあるようだった。
「何か、わかるんですか?」
 多分だけど、と前置きをして、凪さんはその心当たりを話し始めた。
「僕と未来の僕は入れ替わっているだけだと思う。僕が帰れるのは、未来の僕がこっちに戻ってきた、その時」
「入れ替わっている?」
「そう。だから待つしかない」
 十五歳の凪さんは時間遡行をしたということらしい。ただでさえ非現実的なことが多過ぎて混乱していたのに、ますますそれに拍車を掛ける出来事が起きてしまった。
 今頃、元の凪さんはどうしているのだろうか。それが気掛かりだった。


 夕方になるまで公園周辺を散策して、凪さんと私は家に戻った。
 私の部屋にあるテディベアを気に入ったらしい凪さんは、それをぎゅっと腕に抱えているのだが、それはとても可愛らしい図で、私はほっこりと癒された。
 静かな空間の中。
「一つ、聞いていい?」
 不意に、凪さんがぽつりと呟いた。
「はい、何でもどうぞ」
 私がそう答えると。
「時雨志麻は、僕のこと、どう思ってる?」  どう思っているかとはまた不思議な質問をされたものだ。私は少し考えて、素直に述べた。
「可愛いな、って思っていますよ」
「こんな無愛想なのに?」
「少し感情表現が苦手なだけで、本当は優しいですよね。私は好きですよ」
 すると、凪さんは小さく苦笑した。
「時雨志麻も、母さんと同じこと言うんだ」
「凪さんのお母さまってどんな方ですか?」
「一昨日死んだ」
「え……」
 突然の告白に、私は言葉を失った。数分の沈黙の後、そっと尋ねた。
「ご……ご病気とか、ですか……?」
「違う。自害したんだ」
 凪さんは淡々と語る。
「朗らかで優しい質が特徴の天使の中で、僕が異端で、育てるのに耐えられなくなったからって。『少し感情表現が苦手なだけで、本当は優しい』って、他人には言っておきながら」
「……凪さん……」
「それでも、君は同じことを言える?」
 凪さんの瞳は真っ直ぐに私を射抜いた。下手な慰めや同情、誤魔化しは許さないと、そう言っている目だった。
 だから私は、凪さんの瞳を真っ直ぐに見据えて答えた。
「言います。私は、凪さんのこと、好きです」
「どうして?」
「過去の全てがあって、今の凪さんです。クールだけれど優しくて繊細で可愛い、私のパートナーですから」
 素っ気なくて冷たくて、でも心はとても優しい少年。それが凪さんだと、信じていた。
「志麻……」
「初めて名前だけで呼んでくれましたね」
 私はそう笑った。
「……ありがとう」
 凪さんは無表情を崩して、僅かに微笑んだ。その時。
 旋風が巻き起こった。思わず目を瞑り、風が止んで目を開けると、凪さんがふらりと倒れてきた。私は咄嗟に凪さんを受け止める。
「凪さん、大丈夫ですか!?」
「時雨志麻……?」
 眩しそうに私を見上げる顔は、先程の凪さんより大人びていた。そこで気が付く。
 元に戻った。
 元の凪さんに戻ったのだ。
「凪さん……!」
 思いが込み上げ、感極まって抱き締めると、凪さんは「何するの」と私を振りほどいた。
「凪さん、聞いてください」
「何」
「私、凪さんのパートナーになります」
 凪さんの瞳が驚きに見開かれる。
「本気?」
「もちろんです」
「何で突然……」
「凪さんが好きだって、そう気付いたからです」
「……好き?」
「ええ」
 もう二度と、この優しい少年に孤独な思いなどさせない。私がパートナーとなることで、凪さんの傷を少しでも癒せるのなら。その一心だった。
「そう……じゃあ」
 そう言って、凪さんは私の前に跪いた。
「天使ナギ・ヘヴンレイ、時雨志麻のパートナーとして、契約の誓いを」
 そして私の手の甲にキスを落としたので、私はどきっとした。凪さんの唇が軽く触れただけの左手の甲には、小さく十字の痣のようなものが浮かび上がった。
「時雨志麻」
「はい」
「これで君は僕のパートナー」
「はい、凪さん」
 凪さんは溜め息を吐いた。
「敬語やめて。名前も、凪、でいい」
「だったら凪さんもフルネームで呼ぶのやめてください。志麻、でいいです」
「わかったから敬語やめて」
「ふふ、よろしく、凪」
「ん……志麻」
 名前で呼び合うのは、何となくくすぐったい。ふふふと照れ笑いをした私とは対照的に、凪さん――否、凪は表情を崩さなかったが、それこそが私の好きな凪なのであった。