heavenly blue 第三章 天使と仲間


 午後の少し前、私の携帯電話に着信があった。ディスプレイには「月島美々」の文字が浮かんでいる。演劇部の美々部長だ。
「もしもし、時雨です」
『やあやあ、時雨さん! 月島でーす』
 私が電話を取ると、美々部長は明るい声で話し始める。
『突然だけど今日これから暇かなっ? もしよかったら衣装の材料見に行かないかなー、なんて。そんなお誘いでしたっ』
 えへへ、と笑う美々部長に、私もうふふ、と笑って答えた。
「ええ、是非ご一緒させてください」
『やった、ありがとー! あ、じゃあ綴喜くんも誘ってみよっかなー。都合がよければ三人で! 待ち合わせは駅前にお昼過ぎ、一時くらいでいいっかな?』
「はい、わかりました」
『じゃあよろしくっ! 失礼しましたー』
 通話が終わると、部屋の隅で寝ていた凪さんがゆっくりと目を開けた。凪さんはあの二度寝の後、昼前になる今の今まで眠っていたのだった。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「別に」
 ふわあと大きな欠伸をし、凪さんは後頭部をがしがし掻きながら立ち上がった。そして私をじっと見る。
「……どこか出掛けるの?」
「あ、はい。部活の仲間と駅前に。凪さんも行きます?」
 凪さんは私以外の人間には見えないらしいので、ついてきてもらっても構わないだろう。
 凪さんは数秒迷うように視線を落とした後、「行く」と言った。
 天使とお出掛け。何となく嬉しいシチュエーションだ。私は「それじゃあ一緒に行きましょう」と微笑んだ。


 休日の昼下がりの駅前は、行き交う人々でわりと賑わっていた。
 午後一時の少し前。早めに待ち合わせ場所に着いた私は、ベンチに腰掛けて美々部長と綴喜くんを待った。隣には凪さんが座っていて、黙って足元を見つめている。
「やあやあ時雨さんっ、お待たせー!」
 そんな声に顔を上げると、美々部長が元気に手を振ってこちらに駆け寄ってきていた。
 しかし。
「……え?」
 挨拶を返そうとしたところで、私は思わずそう声を漏らした。そしてその驚きは美々部長も同じらしく、私を見て目を丸くした。
 いや、正確には、互いの隣にいる存在を見て、である。
「あれ……凪? わ、凪だ……!」
 美々部長の隣にいた男の子――ただの少年ではなく「翼の付いた」男の子が、そう言った。
ホウ
 凪さんが小さく呟く。鳳と呼ばれたその少年は、凪さんの手を握って嬉しそうに笑う。
「よかった! 凪もパートナーさん見付けたんだね! 同じ町なのかな、嬉しいな」
「そう」
 無邪気に笑い掛ける鳳さんに対して、凪さんは至ってクールに短く答える。その時私は、まさか、と思っていた。まさか、美々部長の元にも天使の少年が――。
 先回りして、美々部長が言った。
「これは驚いたねっ、ひょっとして時雨さんのとこにも天使くんが来てたの?」
「ところにも、って、部長もなんですか?」
 すると鳳さんは軽やかに身を翻して美々部長の隣に戻り、私に向けてふんわりと微笑した。
「僕は美々とパートナー契約を結んだんですよ。断られたらどうしようって不安だったんですけど、受け入れてくれて」
 美々部長は呵々と笑う。
「いやー最初は何の冗談かと思ったんだけどね! 寧ろ今でも半信半疑だったんだけどね! 時雨さんにも天使くんがいるなら安心だっ」
「はあ」
 私はもう、はあ、しか言えなかった。ここ数日は非現実的な出来事が多過ぎて、最早消化不良である。
 それにしても。私は凪さんに視線を移した。
「あの、凪さんは私にしか見えないんじゃなかったですか?」
「言葉が足りなかった。卒業試験のパートナー対象者だけは全ての天使を視認できる」
 私の質問に、凪さんは淡々と答えた。
 でも、そうか。美々部長の元にも自称天使の男の子がいるのだ。これで凪さんへの警戒心が一つ薄れた。
 因みに鳳さんはふわふわとしたパーマのかかった栗色の髪をした、凪さんとはまた違った可愛らしいタイプの美少年だった。天使は美形揃い――響さんの言っていた言葉が蘇る。
「じゃっ、四人仲良く綴喜くんを待とうか――と、噂をすればだねっ」
 美々部長の言葉に振り返ると、綴喜くんが小走りでこちらに向かってきていた。
「すみません、遅れまし――」
 綴喜くんは、言葉と足を同時に止めた。美々部長と私も、目を瞠った。
「綴喜くん、その子……」
 何故なら、綴喜くんの背後にも、天使の姿をした少年がいたからである。
 すると。
「あーっ、堕天使!!」
 綴喜くんが引き連れていた銀色の髪の少年天使は、凪さんを指差して叫んだ。
「……ラン
 凪さんは、苦虫を噛み潰したような不快そうな表情で、彼をそう呼んだ。


 美々部長、綴喜くん、私の三人は、それぞれ天使を伴って、駅前の手芸店に足を踏み入れた。
「ふうん、まさかお前みたいな堕天使を追い払わない人間がいたとはなぁ。志麻さんは優しいな。はたまた、こいつの本質を知らないだけなのか」
 先程から嵐さんは、絶えず凪さんに向けて挑発的な言葉を投げ掛けている。凪さんはそれを無表情で完全に無視していた。そして、そんな二人を困ったような笑顔で見守っているのが鳳さんだ。
「しっかし羨ましいぜ。堕天使も鳳も、相方は可愛くて優しい女性かよ。何で俺の相方だけこんな厳つい大男なんだよ」
「おい」
 生地の厚さを確かめていた綴喜くんが、咳払いをした。
「一人でぺらぺらとうるさいぞ、嵐。あと、そんなに俺が気に食わないのなら天界とやらに帰れ。俺はいつパートナーの関係を解消しても構わんのだからな」
「へーへー、神様仏様幸人サマですよ」
 嵐さんは肩を竦めて舌を出した。しかしながら「神様」はともかく、天使が「仏様」という言葉を使うのは何だか変な感じがした。
 私はそっと綴喜くんに話し掛けた。
「綴喜くんのところにも天使が来たんだ……?」
「ああ」
 やれやれ、と溜め息を吐く綴喜くん。
「しかし、時雨や部長も同じ立場なら心強いな。正直胡散臭くて、おまけに生意気で、パートナーとやらにはなりたくなかったんだが。まあでも」
 綴喜くんはふっと笑った。
「まだ世界には不思議なことがあるのだな、と。そう思った」
 私は考えた。美々部長も綴喜くんも、突然現れた天使という存在を受け入れたのだ。なのに、私は今も凪さんとのパートナーの契約に足踏みをしている。ちらりと隣を見やると、嵐さんの挑発を浴び続ける凪さんがぼんやりと立っている。
「凪さん、あの――」
 そう声を掛けようとした時。
「志麻さん志麻さん」
 不意に、嵐さんが話し掛けてきた。
「はい?」
「堕天使とはちゃんと考慮した上でパートナーになった方がいいですよ。こいつの天界での異名が堕天使っていうんですけど、その理由が――」
 その時だった。
「嵐」
 物凄く低い声が嵐さんを呼んだ。それは凪さんが発したもので、普段からあまり優しいとは言えない目つきを更に鋭くして嵐さんを睨んだ。
「時雨志麻に余計なことを吹き込んだらただじゃおかない」
 どこからかばきばきと音がする。音の出どころを探すと、何と凪さんの右手から冷気と氷が出現する音だった。
「ちょっと、凪さん!?」
「おー、こえーこえー」
 何を仕出かす気か、と焦った私とは対照的に、嵐さんは大層愉快そうに笑って凪さんから逃げていった。
 嵐さんがこれ以上私に接触しないと見ると、凪さんは自身が作り出したと思しき氷を消し、またしても黙り込んだ。どうやら凪さんには氷を生み出すような特殊な能力があるようだ。そのファンタジー感に私が若干わくわくしたのはさておき。
 堕天使、とは一体何だろう。不穏な響きが気になったが、凪さんはそれを聞かれることを嫌っているようだ。ならば私は黙っていようと決めた。
「凪さん」
「……何」
「私は凪さんのこと、嫌いじゃないですよ」
「だから何」
「嵐さんの言ったことは気にしないでください、ってことです」
「……そう」
 顔をそらした凪さんだが、その様子がちょっと嬉しそうに見えたのは、私の気のせいだろうか。


 手芸店を出ると、美々部長は今回の収穫である衣装の材料という荷物を抱えて「ごめんね、この後予定があるのさっ」と鳳さんと共に慌ただしく去っていってしまった。
 となると残ったのが綴喜くんと私である。必然的に、凪さんと嵐さんも残ってしまう。明らかに天敵と呼ぶべき二人を近寄らせていてもいいことはないだろうと、綴喜くんと私も解散した。
「凪さん、どこか寄りたい場所はありますか?」
 せっかく駅前まで来たのだ。そう聞いてみると。
「別に……」
 と答えたが、ふと思い付いたように、凪さんは呟いた。
「……お腹空いた」
「え?」
 それを聞いて、はっとする。昨日から今に至るまで、私は凪さんに何も食べ物を渡していない。まさか何も食べなかったわけでは――そんな私の懸念を察した凪さんはさらりと付け加えた。
「天使は空腹感を覚える間隔に人間と差がある。別に飢えてない」
「あ、そうなんですか」
 ひとまずほっとしたところで、私はぐるりと辺りを見回した。すると、一つのお店が目に留まった。それはクレープ屋さんの屋台だった。
「クレープでも食べて帰りましょうか」
「そう」
 私はクレープを二つ買って、凪さんと一緒にそれを食べながら帰りのバスを待った。
「嵐さんや鳳さんとはどんなご関係なんです?」
 それとなく話を振ってみると。
「別に。同級生ってだけ」
 唇の端にクリームを付けながらクレープを貪る凪さんは答える。
「仲がいいんですか?」
「よくない」
 確かに凪さんの性格を考えると、天界では一匹狼なのだろう。けれど、鳳さんは凪さんに懐いているようだし、嵐さんだって何だかんだ言って凪さんを気にしているようだった。
 こちらの世界では私が凪さんの親代わりのようなものになるのだ。まだパートナーの契約を結ぶ決断はできていないが、凪さんにとって居心地のいい空間を用意してあげられたら、と私は改めて思ったのだった。
 隣に座る凪さんをじっと見つめる。
「……何?」
「クリーム付いていますよ」
 凪さんの白い頬に付いたクリームをそっと指で拭ってやると、凪さんは私を見返すぼんやりとした瞳を少しだけ揺らした。