heavenly blue 第二章 天使と自室
いつものように自室の机で宿題に取り掛かる私の背後に、いつもはあるはずのない一つの影があった。
宿題に集中していると、うっかり、この部屋には普段通り自分しかいないのだろうと思って油断しそうになる。だが、そのくらい気配を希薄なものにしながらも確かにこの空間に存在する、もう一人の人物。それは、人形のように大人しくベッドに座っている凪さんである。
凪さんは、着替えを終えて部屋に戻った私の「お待たせしました」に頷きを返し、「宿題してもいいですか」に「いい」と答えたきり、私が数学のプリントを終え、物理のレポートを仕上げ、英語のリーダーの単語を調べ始めるまでのこの間、一言も喋らず、身動きする様子すらなかった。
無言の時間が続く。思えば、凪さんはこちらが話し掛ければ言葉を返してはくれるものの、自分から話すことがほとんどない。
ならば私から話せばいいのだ、と思い、私は英和辞典を捲りながら雑談を振ってみた。
「凪さんは天界の学校の生徒なんですよね?」
数秒の間を置いて、「そう」と返事があった。
「天界ではどんなことを学ぶんです?」
「一般教養」
かなり大雑把なお答え。
「この世界の学校と同じような内容ですか?」
「知らない」
「じゃあ、得意な教科とかは」
「大体普通」
「反対に苦手なものはあります?」
「特にない」
「そうですか」
「そう」
会話終了。私の質問も上手くはなかったにしろ、ことごとく短い返答だった。
再び訪れた沈黙の中、私はノートにペンを走らせる。しかし、することがある私と違い、凪さんはかれこれ一時間、同じ体勢で座っているだけ。
退屈じゃないかな、と心配になって凪さんに目をやると、凪さんはこちらを見てはいなかった。ぼんやりとした視線は本棚の辺りを漂っている。
「本、好きなものがあったら読んでいいですよ」
そう声を掛けると。
「……いいの?」
凪さんは私を見た。ずっと感情が窺えなかった冷めた瞳が、少しだけ輝いたように見えた。本が好きなのかも知れない。
「はい。ご自由に手に取ってください」
何か、店員のような言い方になってしまった。
私の言葉に凪さんは立ち上がり、本棚に向き合って背表紙を一つ一つ確認していく。そして、一冊の本を引き抜いた。それは普段はファンタジーばかり読む私が珍しく購入した純文学だった。
私はリーダーの最後の単語を調べてノートにメモを取り、辞書を閉じた。その時、階下から、「ご飯できたよー」というお母さんの声が届いた。
「夕飯食べてきます。ゆっくりしていてください」
そう言って席を立つと、凪さんは手にした本の表紙を見つめたまま頷いた。
一階に降りて食卓につき、いただきますを言った私の顔を、お母さんがじっと見た。
「志麻、何かいいことでもあったの?」
「え?」
心臓が跳ねて、箸を取り落としそうになった。
「今日の志麻は嬉しそうに見えるわ。にこにこっていうか、ニヤニヤしてるもの」
それは不覚だった。
いいことかどうかはともかく、何かあったのは確かだから、お母さんの指摘は鋭い。それにしても、ニヤニヤって。そんな間抜けな顔をしていたのか、私は。
私は「どうもしないよ」と誤魔化し、箸でご飯を切り取ってぱくりと口に入れた。
夕食を終えて自室に戻ると、凪さんはベッドに座って静かに本を読んでいた。
「戻りました」
凪さんは開いた本から顔を上げもせずに「そう」と答え、ページを捲る。
読書に熱中していて、戻ってきた私にはまるで興味がないようだった。動くのは、文字を追う瞳とページを繰る指先だけだ。
「どうですか?」
私は凪さんの隣に座り、凪さんの読んでいる本を覗き込んで尋ねた。
「どう、って」
凪さんは私を見ずに聞き返す。
「その本。面白いですか?」
「……悪くない」
ぺらり。また一枚ページが捲られる。凪さんは読むスピードがかなり速かった。私が食事をしに部屋から離れたのはせいぜい三十分なのだが、凪さんの読んでいるところはもう物語の半ばを過ぎている。
本から目を移すと、凪さんの細い肩が随分と至近距離にあることに気が付いた。思った以上にくっついて座ってしまったようだ。
離れようとしたのだが、凪さんの横顔が目に入った瞬間、私の動きは止まった。
(――……)
初めて会った時のように、思わず、息をのんで見入ってしまう。
間近で見ると、改めて思う。本当に綺麗な顔をした男の子だ、と。流行りの「イケメン」と呼ぶのは少し違う、やはり「美少年」と表すのがしっくりくる、神々しくすらある美形。本のページに目を落とし、伏し目がちになったこの表情がしめやかな雰囲気を感じさせてまことに絵になる。
そんな美少年が、お父さんと従兄弟以外の男性が入ったことのない私の部屋にいるというのは変な感じだった。しかもその彼が「天使」ともなれば、違和感は最高潮である。
――ああ、そう、天使。天使だからこそ、こんなに美しい姿なのかも知れない。私はそう思った。
「何?」
注がれる視線に気付いた凪さんが、横目で私を睨んで訝しげに言った。
「あ、いえ」
一瞬言い淀んだが、別に悪いことではないと思い直し、素直に口に出した。
「凪さんって本当に綺麗だなぁって思って。見とれていました」
凪さんの形のいい眉がぴくりと動いた。
「馬鹿言わないで」
凪さんは顔を背け、冷たい口調でそう一言。
「本当ですよ。凪さんは素敵だと思います」
「うるさい」
ぴしゃりと言って、凪さんは読書に戻った。淡々としている凪さんにしては感情的な言葉だった。
何か気に障っただろうか。それとも照れ隠しなのか。凪さんが照れている、というのは、ちょっと想像がつかないが。
赤面一つしていない凪さんの無表情を見て、照れているという線はないな、と結論付けた。