heavenly blue 第二章 条件
浴室から響くシャワーの音を聞きながら、私は濡れて重くなった服にドライヤーをあてていた。
「よし」
できた。そう呟いてドライヤーの電源を切り、乾いたワイシャツを手に脱衣所へ向かった。
「凪さん、シャツ乾きましたから、ここに置いておきますね」
脱衣所から、浴室にいる凪さんに向けて言う。するとシャワーの音が止み、平坦な声が「そう」と答えた。
凪さんを伴って帰宅してから、二十分ほどが経過した今。
家に入って、私はまず、彼の濡れた服を脱がせて身体を温めてやらなければならないと考え、凪さんを脱衣所に案内してシャワーを勧めた。凪さんは渋っていたが、説得を続けると仕方なさそうに承諾し、やおら服を脱ぎ出したので私は慌てて脱衣所を出た。
その後、凪さんが浴室に入ったことを確認して脱衣所に戻った私は、床に脱ぎ捨てられた服を洗濯機で脱水し、ドライヤーと共にリビングへ持っていった。さすがに下着を手にするのは憚られたので、それは置いたままにしてある。
リビングに服を運ぶと、部屋の隅にあるコンセントにプラグを差し込み、凪さんが身に着けていた物の中では比較的薄くて乾きやすそうなワイシャツを選んでドライヤーをあて始めた。
そして今、ようやく水分の飛んだシャツを、凪さんに届けてきたのだった。
「次はスラックス、かな」
リビングに戻った私は、ひとりごちて再びドライヤーを手に取る。
スラックスの黒い生地に温風を送っていると、廊下から、裸足の凪さんがひたひたと歩いてきた。
「温まれましたか?」
そう聞くと、凪さんは頷く。
「今ズボンを乾かしていますから、お好きなところに座っていてください」
凪さんはリビングを見渡し、ソファの端にちょこんと腰掛けた。
凪さんは乾きたてのワイシャツを身に纏い、肩に水色のバスタオルを掛けている。それだけ、である。下着は穿いているのだろうが、太股の上半分はシャツの裾に覆われているので、傍目にはワイシャツ一枚しか着ていないように見える。剥き出しの足にちょっとだけドキッとした。
(いけない、いけない)
いくら綺麗だからって、身体に見とれていては危ない人になってしまう。私は凪さんの足から目を逸らした。
「それで、凪さん」
気持ちを切り替え、ドライヤーの風勢を弱めて話し掛けた。
「こんな雨の中、公園で何をしていたんです?」
「……何も」
先程公園で聞いたのと同じ答えが返ってきたので、質問を変えてもう一度尋ねる。
「昨日の夜からずっとあそこにいたんですか?」
凪さんは答えなかった。しかしその沈黙は肯定を意味していると思われた。
「どうして帰らないんですか」
凪さんは昨日と同じようにしばらく押し黙った後、口を開いた。
「帰る宛がない」
「え?」
「試験が始まって一週間は、天界には帰れない規則だから」
天界。
そうだった。事実か空言かは不明だが、凪さんは自分を異世界からやってきた天使であると言い張っているのであった。
その話を信じるかはともかく。
この濡れた服を乾かし終えたら凪さんにはお帰り願うつもりだったのだが、帰る当てがないということは、私の家から追い出した場合、凪さんはまた外で過ごし続けるということである。それは心配で仕方がないので、私はこう提案した。
「この世界にいる間の宿を探したらいかがです。街に出ればホテルがありますよ。何でしたら私が探しましょうか」
凪さんは首を横に振る。
「それは不可能」
「どうしてです」
「この世界の貨幣を持ってない」
「一円も?」
「ない」
無一文なのか、凪さんは。
「一銭も持たず、どうやって生活するつもりでいたんです?」
「パートナー候補が受け入れてくれなければ、それまで。人間とパートナー関係を結べなかった天使は基本的に路頭に迷うのがこの試験の通例」
路頭に迷う、って。まるで他人事のようにあっさりと言い放たれたが、凪さんはパートナー候補とやらの私に受け入れられなかった当事者である。
「だから公園にいたんですか」
凪さんは、私の言葉に目を伏せる。
話が見えてきた。凪さんの言うことを信じるならば、昨日私にパートナーの申し入れを断られた凪さんは、この世界での居場所を得られず、公園に留まって一夜を明かした、と、そういうことらしい。
まだ肌寒い五月の初めの夜、雨の降る中で。
町中が眠りに就いた深夜、一人公園に取り残されて雨に打たれる凪さんを想像して、切なくなった。
寒かっただろう。心細かっただろう。
私はドライヤーの電源を切り、脇に置いて立ち上がると、凪さんに歩み寄った。凪さんは突然動いた私を不思議そうに見上げる。
「凪……」
私が凪さんに手を伸ばした、その時。
「ただいまー」
玄関の扉が開く音と同時に、明るい声がした。私は伸ばしかけた手を慌てて引っ込め、玄関の方向に顔を向けた。
どうしよう、お母さんが帰ってきてしまった。
親が留守だったのをいいことに家に連れ込んだ凪さんは、お母さんの見知らぬ男の子で、しかもほぼワイシャツ一枚という格好。それを見たお母さんはどう思うだろうか。……変な勘違いをされる可能性がないとは言えない。
私は辺りを見回して凪さんを隠せるような場所がないか探したが、当然、そんな場所が見付かるはずもなかった。
狼狽えている間に、お母さんがリビングにやってきた。
「帰ってたのね、志麻。お帰りなさい」
「お、お母さん、これはその」
こんな格好の男の子が家にいるのには色々と事情がありまして――と言い訳を続けようとした私の声を、お母さんは笑顔で遮った。
「ちょっと買い物に出てたの。急いでご飯の支度するから、待っていて」
そう言って、ソファに座る凪さんには目もくれず、買い物袋を片手に台所へと歩いていく。
(え?)
私はきょとんとした。
お母さんは私を見たのだから、私のすぐ目の前にいる凪さんが目に入らないわけではあるまい。なのになぜ、凪さんを気に留めないのだ。
ふと、昨日凪さんが言っていた言葉を思い出す。「天使は普通の人間には視認されない」――まさか、本当に?
「あの、お母さん?」
「何?」
呼び掛けると、お母さんは機嫌よく振り向いた。私は躊躇いつつも、凪さんの座るソファをそっと指差した。
「ここに、何か見えない?」
「何か?」
お母さんの瞳が私の人差し指が指し示す先を追った。同時に、凪さんがゆっくりとお母さんに顔を向け、二人の視線が交わる。
しかし。
「何か、って? 何かあるの?」
お母さんは自分を見上げている凪さんを無視して、小さな物を探すように目を細めた。
(――嘘)
唖然とした。ここに堂々と座っている凪さんが見えないというのか。
凪さんの存在に気付いた上でわざと知らない振りをしているのではないかとも思ったが、お母さんは演技派ではないし、そんな演技をする必要もない。目を凝らして私の言う「何か」を探しているところを見ると、これが素直な反応なのだとわかる。
「ごめん、何でもない」
私はそう言って一方的に話を切り上げた。お母さんは「変なこと言うわね」と首を傾げたが、特に気にした様子もなく、台所に向かっていった。
この反応から導き出される答えは一つしかない。お母さんの瞳に、凪さんの姿は映らなかったのだ。
隣を見ると、いつの間にか私に目を戻していた凪さんと目が合った。
「少しは信じた?」と凪さん。
「え?」
「僕が人間じゃないってこと」
それは――。
「……はい」
力なく頷くしかなかった。
信じた、というか、まだ信じられない気持ちの方が強いのだが、お母さんの反応をこの目で見た以上、信じざるを得なくなってしまったといったところだ。
本当に、お母さんには凪さんが見えない、だなんて。凪さんがただ電波な発言をするだけの少年でないのは確かなことのようである。
「あの。二階に来てもらってもいいですか? 母がいるとちょっと……話しづらいので」
私は凪さんの耳元に顔を寄せ、台所にいるお母さんに聞こえないよう声をひそめて言った。凪さんの姿が見えないということは、私が凪さんに話し掛けている様は、お母さんからは独り言を言っているように見えるということだから。
凪さんは私に従い、ソファから腰を上げる。私は凪さんの服とドライヤーを持って廊下に出た。
「こちらです」
先立って階段を上る私の後を、凪さんが音もなくついてくる。
階段を上りきった私は、自室の扉の前で振り返り、凪さんに向き直って口を開いた。
「天界に帰れないのは一週間と言いましたよね?」
「そう、だけど」
凪さんは私の唐突な質問の意図がわからないようで、少し戸惑った様子で答えた。
「ということは、一週間が過ぎたら帰れるんですね?」
「……――そう」
妙な間があった気もしたが、凪さんが肯定したので、私は。
「でしたら、あなたが天界に帰れるまでの間は、私の家にいていいです」
思い切って、そう告げた。一週間、凪さんを受け入れようと覚悟を決めたのだ。
「本当?」
表情の乏しい凪さんの顔に、僅かに驚きの色が浮かぶ。
「はい。パートナーになるかどうかは、一週間あなたと暮らして決めます。ただ、途中で私とあなたのどちらか一方でも、これ以上一緒にいられないと思ったら。その時には、期間内でも家から出ていただきます。いかがです?」
私の「条件」を聞いた凪さんは、小さく頷いた。
「わかった」
その答えを聞いて、私は少しだけ心を弾ませた。一週間宿ができて助かるのは凪さんの方だ。なのに、なぜ私が嬉しく感じているのだろう。
思うに。私はこの短時間で凪さんのことを気に入り始めているのかも知れなかった。凪さんはどこか心許ない儚げな雰囲気を纏っていて、それを見ていると、私の中には庇護欲に近い何かが沸き起こるのである。この子を放っておいてはいけない、という気持ちになるのだ。だからもう、このまま凪さんを追い出すなんてことはできそうもなかった。
「一週間、よろしくお願いします」
私は左腕に服とドライヤーを抱え直し、右手を差し出して握手を求めた。
凪さんは差し出された私の手を一瞥すると、私の手に自分の手を重ねて弱い力で握り、ゆるりと頭を下げた。凪さんの白い手はひんやりとしていた。
「時雨志麻」
繋いだ手を離し、下げた頭を定位置に戻した凪さんが、私を呼んだ。
「はい?」
私は首を傾げて微笑んだ。そんな私をじっと見つめ、凪さんは呟くようにこう言った。
「……ありがとう」
にこりともせず発せられた言葉だが、その瞬間、私の心は確かにときめいた。
だって。素っ気ない凪さんの口から「ありがとう」が聞けるなんて、思ってもいなかったのだ。
「ええと……」
私は妙に気恥ずかしくなって、上手く反応することができなかった。おかしいな、他の人からありがとうと言われたところで、こんなに照れることはないのに。
「それじゃあ、入って下さい」
不意に述べられた感謝の言葉があまりに意外できゅんとした、なんてことを本人に気付かれないように、私は努めて平静を装って言い、背後の扉に手を掛けた。
「ここは?」
凪さんが疑問を呟く。
「私の部屋です」
そう答えて扉を開けてやると、凪さんはかくんと頭を垂れ下げて部屋の中に入った。わかりづらい動作だが、一礼したのだろう。
凪さんと共に自室に入った私は、右手にあるクローゼットを開いた。クローゼットの中のタンスの上に畳んで置いてある一枚の服を手に取り、凪さんに差し出す。
「これ、どうぞ」
凪さんは私が差し出した服を見て首を傾げた。
「ジャージです。私のでよければ、お貸しします」
「いらない」
予想はしていたが、拒否された。
「そんな薄着のままではよくありませんよ。新品でなくて嫌かも知れませんけれど、ズボンが乾くまでの間、我慢して穿いていていただけませんか」
「…………」
「お願いします。一晩だけですから」
シャワーの時と同じく諦めずに説得をすると、やがて凪さんは、そろりと手を伸ばしてジャージのズボンを受け取った。渋々ながら、着てくれる気になったようだ。
凪さんはその場でジャージに両足を通した。惜し気もなく晒されていた素足が隠れ、私はほっとする。先程から、気を抜くとつい目が凪さんの剥き出しの足に吸い寄せられてしまって、困っていたのだ。
私のジャージは凪さんの足にはサイズがやや合っていないようで、丈が足りずに足首がしっかりと露出していた。身長は私の方がいくらか高そうなのに、足は凪さんの方が長いらしい。これは男女の体型の差なのか、はたまたスタイルの良し悪しの問題なのか。――きっと両方なのだろう。
若干複雑な気分になったのはさておき、これで、凪さんが身に付けている物はワイシャツとジャージ。ワイシャツ一枚きりの姿の寒々しさは大分軽減されたが、おかしな組み合わせの格好になった。
私は、急いで乾かす必要もなくなった生乾きのスラックスとケープを、ハンガーに掛けて吊るした。
皺にならないように生地を伸ばし終え、振り返ると、凪さんは部屋の中央に立ち尽くしていたので、私は「適当に座ってください」と声を掛けた。
凪さんは勉強机の前にある椅子を見やり、次に、首を回してベッドに目を向けた。腰掛けられそうな場所がその二つしかないとみた凪さんは、ベッドを選んで腰を下ろした。
「じゃあ私、着替えさせてもらいますね」
私は着ている制服のセーラーカラーを摘まんで言った。帰ってからずっと凪さんに気を取られていて着替える暇がなかったので、未だ制服に身を包んでいる。そろそろ楽な格好になりたかった。
「そう」
凪さんはどうでもよさそうに返事をする。
仮にも男性である凪さんの前で服を脱ぐわけにはいかないので、私は着替えを持って部屋を出た。
隣の部屋に入って、タイの結び目に指を引っ掛ける。
タイをほどきながら、思った。
(本当に、これから何日間か、凪さんと一緒に生活するのか)
大丈夫だろうか、上手くやっていけるのだろうか。そう考えてドキドキしてきた。
そのドキドキの中には、不安だけでなく、天使との生活への期待――楽しみな気持ちも含まれていることは、間違いないのだが。