heavenly blue 第二章 雨の公園


 翌日は雨だった。
 昨夜遅くに降り出した雨は、夕方になっても絶えることなく、寧ろ勢いを増して町中を濡らしていた。
「時雨」
 放課後。いつものように演劇部の活動を終えて帰り支度をする私を、落ち着いた声が呼び止めた。
 振り向くと、百八十センチは優に超えるであろう長身の男子生徒が、私を見下ろしていた。引き締まった体躯、黒々とした短髪、きりりとした顔付きが凜々しい印象の彼は、同級生で部活仲間の綴喜幸人つづきゆきとくんだ。
「綴喜くん。お疲れさま」
「お疲れ。迷惑でなければ同行させてくれないか」
 一緒に帰ろう、という意味にしては堅苦しいその言葉に、私は頷いた。
「ええ、一緒に帰りましょう」
「そうか。恩に着る」
 一緒に帰るなんていつものことにも関わらず、綴喜くんは礼を述べる。生真面目な人だ。
「綴喜くんは何分のバスに乗るの?」
「二十分。時雨も同じバスだろう?」
「ええ」
 そう言葉を交わしながら、綴喜くんと私は揃って部室を出ようとした。すると。
「おっ、お若いお二人、一緒に下校かい?」
 溌剌とした声がして、私達の前に少女がぴょこんと回り込んできた。
 百四十センチあるかないかの小柄な彼女は、我が演劇部の部長を務める、月島美々つきしまみみ先輩である。
「仲睦まじいねっ。これぞ青春、って感じ! 羨ましいことだっ」
 美々部長は、真夏の向日葵も顔負けの満面の笑みを私達に向けて言った。明朗な性格がよく滲み出ている、眩しい笑顔だった。
「部長もご一緒しませんか?」
 私が誘うと、美々部長は腰まで垂らした長い黒髪を掻き上げ、カラリと笑った。
「時雨さん優しいなぁ。ありがとー! でも残念だけど、今日は他の子と待ち合わせしてるんだっ。それに二人のお邪魔虫になるつもりはないさ! せっかく二人きりのひとときを手に入れた少年少女の間に割り込むのは野暮というものだよっ。でしょ?」
 でしょ、と言われても。激しく勘違いされているようだが、綴喜くんと私は異性とはいえごく普通の友人であって、美々部長が思っているような甘酸っぱい関係ではない。
 何と答えようか迷っているうちに。
「そんじゃ、お疲れ、お二人さん! また来週っ」
 美々部長は私の返事を待たず、小さな手で可愛い敬礼をしてみせると、ぴょこぴょこと跳ねるような足取りで部室から去っていった。
 その場に残された私達は。
「……行くか」
 美々部長の勢いに軽く圧倒されてしばし立ち尽くしていたが、綴喜くんの一言で時間の感覚を取り戻し、部室を後にした。
 綴喜くんと私は、肩を並べて廊下を歩いた。辺りには、私達と同じように部活を終えたばかりの生徒が沢山いる。それぞれの小さな話し声が集まることで、ガヤガヤとしたざわめきが生まれていた。
「もうじき中間試験だな」
 喧騒の中を進みながら、綴喜くんが話を振ってきた。
「そうだね。綴喜くんは勉強進んでいる?」
「多少はな」
「綴喜くんなら、今回も学年一位は間違いないでしょう?」
 綴喜くんは、入学以来全ての試験で学年一位を明け渡したことのない優等生だ。今回も余裕でトップに君臨することだろう。
 しかし綴喜くんは「そうでもないさ」と謙遜し、下足室に入って自分の下駄箱に手を伸ばした。
 昇降口の向こうを見ると、外では雨が降り続いていた。私は靴を履き、傘立てからビニール傘を抜き取った。
「時雨、バスが来たぞ」
 学校前の停留所に止まったバスを見付けた綴喜くんは、手にした黒い紳士用傘を開くことなく走り出した。その背中は物凄い速さで遠ざかっていく。
「えっ、ま、待って」
 私は急いで傘を開き、足の速い綴喜くんを追い掛けた。せわしい駆け足によって、地面に張っている水の膜がパシャパシャと躍り、跳ねた水滴が靴下を濡らした。
「急げ、時雨」
「ごめん、ありがとう」
 先に停留所に着いた綴喜くんがバスを引き止めていてくれたお陰で、私も何とか乗車することができた。
 二人掛けの座席に並んで収まると、バスはゆっくりと発車した。
 バスの中、私は隣に座る綴喜くんに礼を言う。
「ありがとう、綴喜くん。これを逃したら何十分か待つことになるものね」
「そうだな」
 私達は小さく笑い合った。


 窓の外を流れる見慣れた景色を眺め、他愛ない世間話を繰り返しながらバスに揺られること二十分ほど。北高校前から七つ目の停留所で、私は綴喜くんを残してバスを降りた。
 傘を開き、雨に煙る道を一人歩く。
 足を進めていくと、桜の並木道に差し掛かる。
 日本列島の北側に位置するこの地域では、五月に入ってからようやく桜が蕾を開くので、ここの桜も、最近花を付け始めたところだ。
 私は雨粒の散らばる透明な傘越しに桜を見上げた。雨を受けて佇む桜は、その花の持つ儚さを一層際立たせた、独特な趣きがあった。それはそれで美しい姿だったが、開いたばかりの花が雨に打たれて散ってしまうのは惜しまれる。
 長い並木道を過ぎると、もう家は間近だ。
 ざあざあという雨音を聞きながら、私は思う。
(凪さん、何しているだろう)
 頭に浮かんだのは、昨日公園で語り合った少年――凪さんのこと。
 今日はまだ、凪さんを見ていない。
 昨日初めて凪さんを見たのは、帰宅した時、家の前でのことだ。今日もいるだろうか。私は、私の家の通りへ続く曲がり角の手前で足を止めた。
(いてくれるといいな)
 ほんの少しの期待を抱き、心なしか弾む鼓動を感じて角を曲がった。
 しかし。
(……いない)
 そこに、凪さんはいなかった。
 誰もいない通りを見つめ、何だか残念に思っている私がいた。
 昨日、「また明日」と言って別れたものの、私は凪さんの居場所を知らないので、こちらから会いに行くことはできない。凪さんから私の前に来てもらう他、顔を合わせる方法はないのだった。
 これでは、いつ再び会えるかわからない。普段どこにいるのか聞いておけばよかった、もしくは待ち合わせ場所でも指定するべきだったか、と今になって後悔するが、あの時は友達の申し込みをして名前を聞いただけで満足してしまい、そこまで気が回らなかった。
(迂闊だったなぁ)
 だが、諦めるのはまだ早い。今はまだ午後六時台である。昨日凪さんと話をしたのは七時を過ぎた頃だったのだ。これから訪ねてきてくれる可能性は十分に残っている。
 家に着いた私は、玄関前のフードの下で傘を畳み、鞄を探って鍵を取り出した。
 その時、不意に思い付く。
 ――もしかしたら。
 突然過った考えに駆り立てられ、私は手にした鍵をスカートのポケットに仕舞い、たった今畳んだ傘をもう一度開くと、再び雨空の下に飛び出していった。
 雨の中、ある場所を目指してひた走る。何故これほど気が急いているのかは自分でもわからないが、足は止まらない。
 角を二つ曲がれば、昨日の公園が見えてくる。目的地はそこだ。
 私は、凪さんはそこにいるのではないかと思ったのだ。何一つ根拠はなく、ただそう感じただけだが、不思議と確信のようなものを覚えていた。きっと会える、そんな予感がした。
 入口で立ち止まり、公園の中を覗く。
 すると、はたして、凪さんはそこにいた。
「……!?」
 だが、そこにいる凪さんは思いも寄らぬ姿をしていて、一瞬、目を疑った。
「凪さん!?」
 その光景を理解できた時、私は彼の名を叫んだ。
 凪さんは緩慢な動きでこちらに顔を向け、私を視界に捉えると、薄い唇を小さく「時雨志麻」と動かした。
「何しているんです!?」
 声を張り上げ、凪さんの元へと駆け寄る。
「……何も」
 凪さんは雨音に掻き消されそうな声でそう答えた。
 雨粒が容赦なく凪さんの身体に打ち付け、もう水滴など染み込む余地がないだけ濡れている髪と服がそれを受け止める。
 そう、何と凪さんはこの雨の中、傘も差さずにベンチに座っていたのである。頭から足の先までずぶ濡れの少年がいるのは、それは異様な光景だった。
「何も、って」
 そんな答えで納得できる状況ではない。私は凪さんの腕を掴んで引っ張り上げ、ベンチから立たせた。
 シャツの上から触れただけではっきりとわかる。その身体は驚くほど冷たかった。数十分雨に打たれたくらいではこれほどまでに冷え切ることはないだろう。一体凪さんは何時間こうしていたのか。
「何?」
 強引に立たせられた凪さんは、少し不機嫌な声色になった。
 私は凪さんの目を見て言った。
「このままじゃ風邪をひいてしまいます。一旦私の家に来てください」
「いい」
 凪さんは私の手を振りほどこうとする。私がその腕をしっかりと掴んだまま離さないでいると、凪さんは困惑したように眉をひそめ、腕を捩った。
「離して」
「来てください」
 有無を言わせず歩き出す。腕を引かれ、凪さんは引きずられるように、覚束ない足取りで私の後に続く。
 この身元不明の少年を家に連れていくことには勿論まだ抵抗はあるが、今は濡れ鼠になった姿をどうにかしてあげるのが最優先だった。
 家の前まで凪さんを連れてくると、私は扉の鍵を開けて、凪さんを中へと手招いた。
 しかし、入りたくないのか、凪さんは玄関前で突っ立ったまま動こうとしない。
「凪さん」
 再度腕を掴み、強く引いた。すると凪さんは案外すぐに抵抗を諦め、素直に足を踏み入れた。
 玄関に入ると、凪さんの服からはぽたぽたと雫が滴り落ち、あっという間にたたきを濡らした。
「上がってください」
 靴を脱ぎ、凪さんを振り返って言う。
 凪さんは無言で上がり口を見つめると、急にくるりと回れ右をし、扉を開けて家を出ていった。
「ちょっ、ちょっと凪さん、どこへ行くんですか」
 慌てて、脱いだばかりの靴を爪先に突っ掛けて凪さんを追った。凪さんを逃がしてはならない、と。
「待ってくださ――……わっ」
 扉を押し開けたところで、驚いて声を上げた。扉のすぐ目の前で、背を向けた凪さんが立ち止まっていたのだ。逃げたわけではなかったらしい。
 凪さんは、肩に掛けていたケープを外して手に持っていた。水分を含んだそれを両手で掴み、ぎゅっと捻り上げる。捩れた紺色の布地から水が溢れ出した。
 それを何度も繰り返して水が出なくなるまでケープを絞ると、凪さんは扉を開けた状態で固まっている私を一瞥し、私の脇を抜けて家に入った。足を軽く振るようにして靴を脱ぎ捨て、式台の端でこちらを振り返る。無感情な蒼い瞳が私を見つめた。
「あ……、じゃ、じゃあ、こちらにどうぞ」
 ぽかんとしていた私ははっと我に返り、家に上がり直して凪さんを手引きした。
 今のはもしや、彼なりに気を遣っての行動だったのだろうか。濡れた服のまま家に上がり込んで床が水浸しにならないように、というような。
 そう考えながら、私は脱衣所に続く扉に手を掛けた。