heavenly blue 第一章 パートナー


 彼のその言葉を聞いた途端、私の脳は固まった。
「……はい?」
 パートナー、だって?
 パートナーとは。Partner――「共にする人」という意味の英単語。仲間や相棒、また、ダンスやテニスなどで二人で組んで行う時の相手を指す言葉である……なんてことはいちいち考えるまでもない。問題は、なぜ彼が私を相棒に欲しているのかだ。
「パートナーって、何の、ですか」
 そう聞いてみた。まさか社交ダンスやダブルスの誘いではないだろうし、パートナーを「伴侶」という意味で使用した新手のプロポーズ、ということも、もちろんないだろうし。
「卒業試験」
 彼はトンチンカンな考えを浮かべている私にそう答えをくれたが。
「試験?」
 その答えにますます混乱した私の頭の中には疑問符が飛び交う。
 首を捻る私を見て彼は言った。
「説明すれば少し長くなる。……聞きたい?」
「は、はい。ご説明いただきたいです」
 卒業試験のパートナー。説明をもらわないことには全くもって意味不明である。私は詳しい話を求めた。
 そして、彼は静かに語り始めた。
「人間が住むこの世界、人界の遥か上空には、天使が住まう世界が存在している。名を、天界。時代変化の乏しい平淡な世」
「……」
「天界唯一の学舎、天界学園『蒼穹そうきゅう』の中等部ではこの時期卒業試験が行われる。試験を突破するには、ある課題をクリアする必要がある」
「……」
「課題とは、人界で己のパートナーとなる人間を探し、一年間共に生活すること」
「……」
「僕はその試験で人界に降りてきた蒼穹中等部三年の天使の一人」
「……」
「そして、僕のパートナー候補こそが、君」
 そこまで話し終えると、彼は再び口をつぐんだ。
 発するべき言葉が見付からず、私は唖然として彼を見つめ続けた。
 天界? 天使? 卒業試験? もし、この話の全てが嘘八百なら、見知らぬ相手を捕まえてよくここまで冗談を貫いたものだと褒めてやってもいいかも知れない。
「嘘じゃない」
 私の思考を読んだように、彼が真剣な声で訴えてきた。
「僕は君とパートナーの契りを結ばなければならない。僕の話を信じて欲しい」
 彼の声はどこまでも真摯な響きで私の耳に届いた。その響きにぐらりと心が揺れた私は、とりあえず、彼の話を信じたという体で気になることを質問した。
「パートナーって、具体的には何をするんです?」
 内容によっては、そのパートナーとやらになってあげてもいい、と思ったのだが。
「天使は、パートナーとなった人間に一年間付き従うのが原則。だから、僕は君の家に居候することになる」
「えっ!?」
 思わず驚きに声を上げた。
「居候って。泊まるんですか!?」
「そう」
「そ、それはちょっと。私の家には親がいますし」
 お母さんは、私が突然男の子を連れて帰ったら目を丸くするだろう。わりとお人好しなお母さんではあるが、こんな怪しい少年を泊めてくれるわけがない。
 しかし彼は言う。
「問題ない。天使は普通の人間には視認されない。見えるのは君にだけ。君さえ理解してくれれば生活は可能と思われる」
「私にしか、見えない?」
「例外の特殊な人間もいるけど、大体は」
 それが本当なら彼が人間でないことは確定だ。
「でも、それでも、ちょっと」
 確かめるために家に連れて行きたい気もしたが、彼とは今さっき初めて言葉を交わしただけの関係。親しくもない少年を家に上げるのは抵抗がある。
 すると彼はまたしても黙りこくり、私をじいいっと見た。
「後は、君の判断に任せる」
 穴が開くほど私を見つめた後、彼は小さな声でそう言った。
 どうしたらいいのだろう。
 天使を名乗る彼は、幼き日の私が憧れた幻想世界の住人とも言える。かつて私が探し求めた非現実が、今、目の前に転がっているのだ。
 彼がもたらした夢のような話を、信じたくないと言えば嘘になる。
 だが、年を重ねて身に付いた常識が、そんなことが起こり得るはずがない、と、彼の話を受け入れることを拒んでいた。
 考えた末、私は言った。
「ごめんなさい。あなたのパートナーにはなれません」
 それを聞いても、彼は表情を変えなかった。まるで、私の答えは端から知っていたというように。
「……そう」
 彼は静かに目を伏せ、顔を正面に戻して俯いた。
 彼の話は、信じてみたいと思った。だが、私はまだ「彼自身」を信用しきれてはいない。身元もわからない少年と共に暮らす決断などできなかった。
「もう話はない」
 彼がぽつりと言った。
「え?」
「もう、帰っていい」
「そう……ですか」
 話が終わった以上、公園にいる意味もない。しかし、彼をここに一人残しては去りがたい。
 散々迷ったが、私はベンチから立ち上がり、自宅の方向へ足を踏み出した。
 きっと、これでさよならだ。もう二度と彼に会うことはないかも知れない。
(……二度と……)
 公園の出口で足を止め、振り返った。
 ベンチで俯いたままの彼の横顔がどこか寂しげに見え、私は思わず叫んでいた。
「あ、あのっ!」
 彼が顔を上げる。
「私達、友達になれませんか?」
 私の口から出たのは、そんな言葉だった。それを聞いた彼は、ゆっくりと首を傾げた。
「試験とかパートナーとか、そういうことは一旦置いて、友達に。少しずつあなたのことを知って、あなたを信頼することができたなら、その時はパートナーになります」
 私はほとんど無意識のように口走っていた。よく考えた上での言葉ではなかった。ただ、彼との繋がりがなくなるのが惜しくて、答えを先伸ばしにして彼を繋ぎ止めようとしていた。
 私の言葉を聞いた彼は瞬きを三回する間分くらい静止し続けた後、こくんと頷いた。
「わかった」
「あ、ありがとうございます。これからよろしくお願いしますね」
 自然と口元が緩み、私は彼に笑顔を向けた。彼は無表情で私を見返すだけだった。
「それじゃ、また――」
 立ち去ろうとして、あることに気が付く。大切なことを忘れていた。
「そう、一つ伺いたいことが」
「何?」
「あなたのお名前を教えてください」
 彼はパチリと瞬きを一つ。
ナギ
 と答えた。
「凪さん、ですか」
「そう」
「じゃあ、凪さん。また明日、お会いしましょう」
 そう言って手を振ると、凪さんは頷きより少し深く、頭を前に傾けた。会釈のつもりだろうか。
 私は踵を返し、家へと歩き出す。
 暗がりを歩きながら思う。これで、私と凪さんはまだ繋がりを持つことができている。
 私は、凪さんと離れがたかった。
 それは、凪さんが私の憧れである天使らしき存在だからかも知れないし、単にその綺麗な外見にほだされているのかも知れない。
 どちらにしても、全てに結論を出すにはまだ早過ぎる。これから凪さんのことを知っていくべきだと、そう思った。
 なぜか、私の胸は高鳴っていた。
 その日から、天使と私の不思議な生活が始まった。