heavenly blue 第一章 再会
私達はそれからもしばらく「天使」について話したのだが、ことごとく考えの一致しない響さんと奏さんは、私を差し置き、二人で言い合いを続けていた。
「だーかーらーよぉ、天使なんざ存在するわけねえだろうが。常識的に考えろ、電波」
「常識にこだわっちゃ駄目だよ、奏。この世界には、普通の人には姿を見せないものが沢山あるんだよ」
「じゃあ聞くが、その普通は姿を見せないもんが何でお前には見えてんだよ」
「僕は普通じゃないんじゃない?」
「それには同意するけどな」
「それどういう意味?」
「お前はおかしい、って意味に決まってんだろ」
仲がいいのか悪いのか。いや、いいのだろうけれど。
会話に入る機会を失った私は、何気なく掛け時計に目をやった。そしてはっとする。
「あの、響さん」
私は遠慮がちに二人の会話に割り込み、響さんに声を掛けた。
「何? 志麻ちゃん」
「すみません、こんなに長くお邪魔してしまって。そろそろ失礼します」
そう言って、ソファから立ち上がる。長針は上方を指している。時刻は七時を回っていた。
「帰っちゃうの?」
「はい、響さん達も夕飯時でしょうし」
「そっか、またね」
「お邪魔しました」
お辞儀をしてから玄関に向かって歩き出すと、二人も後をついてきた。
「でもさー、志麻ちゃん」
廊下を歩きながら、響さんが話し掛けてくる。
「やっぱり、もう一度その子を見付ければ真実がわかるよね。天使だっていう証拠を掴めるかも知れないよ。次に会ったら、思い切って話し掛けてみたらいいんじゃないかな」
すると、奏さんが口を挟む。
「馬鹿、危険なことさせんな。そいつは絶対ただのストーカーだっつーの。危ないから見掛けても近寄るなよ、志麻ちゃん。すぐ助けを呼べ」
「はあ」
玄関に着き、私は二人の対照的な意見に曖昧な返事をして靴を履いた。
両足を靴に収めてから、二人を振り返った。
「お話聞いてくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ、だよ。興味深い話をありがとう」
「今度からは響を話し相手にするのはやめた方がいいぞ。こいつ頭おかしいからな」
私は奏さんの言葉に苦笑いして扉に手を掛けた。
「では、お邪魔しました」
「じゃあね」
「またな、志麻ちゃん」
二人にもう一度頭を下げて、御門さんの家を出る。外は随分と暗くなり、街灯がぽつぽつと灯っていた。
薄青い夕暮れの空を見上げる。
響さんと奏さんに話を聞いてもらって、少しは私の気持ちも晴れた――のだろうか。かえって靄が増えた気がしないでもない。
『どう考えてもそれは天使でしょ』
『僕も昔何回か天使と会ったことあるんだけど』
『昔から、他の人には見えてないらしいものが色々見えるんだよねー』
響さんの言葉を反芻する。私が見たものは天使だと断言し、自身も天使と会ったことがあると言い、更には霊感があるとまで。ぶっ飛んだ話を沢山していた響さん。奏さんはそれをホラだと言っていたが、実際、どうなのだろう。響さんの話を、どこまで本気にしていいのか、悩みどころだ。
響さんは嘘を吐かない人だ、と、長年の付き合いから私は思っている。しかしこの話は、とてもじゃないが、鵜呑みにはできない。
(……それを言ったら、私の話も相当有り得ないけれど)
そうなのである。私は響さんのことをどうこう言えないような話をしたのだ。自分の話は信じて欲しいのに相手の話は信じられないなんて、それはいけないわけで。
だが、冗談だと思われても仕方のない話を、二人に真面目に聞いてもらえただけで、十分だった。色々考えることはあるが、私はひとまず、自分の家へと歩き出した。
すると。
(あれ……?)
数歩進んで、足を止めた。数メートル先の私の家の前に、人影を見付けたのだ。
薄暗い道の真ん中に浮かぶのは、華奢な少年のシルエット。
そして彼の背には、二枚の大きな翼が。
「あっ……!」
私は思わず声を漏らした。
私の声が聞こえたのか、そこにいた人は横目でこちらを見た。私の姿をその瞳に捉えると、彼はふいと顔を逸らした。
そして次の瞬間、背の翼が大きく広がった。
既視感に目が眩んだ。いや、それは一度見た光景をそのままなぞっているわけだから、デジャヴとは言えないだろうか。
「ま、待って……!」
あの「天使」だ。そう思った私は、考えるより先に、彼の元へと駆け出した。
彼がストーカーかも知れないとか、霊的な何かかも知れないとか、たった今響さん達と話したことは頭から消え去っていた。ただ、これを逃したら二度と彼と会えなくなる気がして、彼を逃がしてなるものか、と思った。
翼が宙を扇ぎ、彼の足が地を離れる。――行ってしまう!
「待ってください!」
私は無我夢中で手を伸ばし、地面を蹴って彼に飛び付いた。
願いは届き、私の手は彼の肩を掴むことに成功した。
(やった!)
しかし、そう思ったのも束の間。彼の身体は勢い余った私の力を受け、無抵抗に傾いでいくではないか。
まずい、と思ったものの、後先を考えず彼に飛び掛かっていった私は既にバランスを失っており、どうすることもできずに彼を押し倒す。
そして。
「うわっ」
ドサリ。私は、彼を巻き添えにして地に倒れ込んだ。
俯せに倒れた私の視界は地面に遮られ、光がなくなった。真っ暗な世界で、一瞬、天と地の感覚が失われ、何が起きたのかわからなくなる。
(痛い……けれど、それほどでもない)
身体の前面の全体に衝撃があったが、右膝を思い切り打った以外、痛みは少ない。それは、地面と私の間に挟まれ、クッションの役割をしたものがあったからだと思われた。
(クッション?)
はたと気付いた私は、地面に手をついて上体を起こした。開けた視界でまず目に入ったのは、仰向けに倒れた少年――紛れもなくあの「天使」であった。私はそんな彼に覆い被さっている。あろうことか、私は倒れた拍子に彼を組み敷いていたらしい。
「す、すみません!」
慌てて謝って、彼から離れる。
「…………」
私という重石がなくなった彼は、ゆっくりとした動作で身体を起こした。
「大丈夫ですか。お怪我ありませんか」
私は尋ねた。私の体当たりを食らい、アスファルトに叩きつけられた彼は、私の数倍のダメージを受けたはずだ。怪我をしたかも知れない。
立ち上がった彼は、何も答えないどころか、私と目を合わせることもなく、服に付いた砂埃を払う。
「あの……」
「…………」
「大丈夫……ですか?」
「…………」
もう一度尋ねても、彼は口を閉ざしたままだった。俯きがちな顔は無表情で、そこからはどんな感情も汲み取れない。
(どうしよう、怒っている?)
不安になった。何をするんだと怒鳴られるのは嫌だが、無言でいられるのもまた妙な圧力を感じるものだと知る。
「平気」
何も言わない彼におろおろし続けていると、不意に小さな声がした。感情を含まない、平坦な声だった。それが彼から発せられたものだと気付くのには数秒の時間を要した。
「え?」
その言葉の意味がわからず首を傾げると、彼は顔を上げ、私を見て言った。
「怪我はない」
彼の「平気」は、先程の「お怪我ありませんか」に対する答えだったらしい。タイムラグがあり過ぎだが、とりあえず、私は安心した。
「そうですか。よかった」
「そう」
無事だと知り胸を撫で下ろした私に、彼は無愛想に言い、それきり黙った。
不思議な人である。彼には、簡単に「無口」とは言い表し切れない謎めいた陰があった。
それからしばらくの間、彼と私は無言で向き合っていた。どう話を切り出したらいいのか、そもそも何を話すべきなのかわからなかった。しかし、飛び掛かってまで引き留めたのだから、何か言わなくてはならない。
「ところで」
一分近くの時を経て、私はようやく口を開いた。まずはこれを聞こう。
「今日、少し前にもここに立っていましたよね?」
その問いに、彼は肯定も否定もせずに、ただ私を見返す。
「私はこの家の者です。私の家に何かご用でしたか?」
答えはすぐには返ってこなかったが、待っていると、ややあって、彼が口を開いた。
「時雨志麻」
唐突に名前を呼ばれ、ドキリとした。私の動揺を気にせず、彼は続ける。
「君に用があった」
「そ、そうなんですか」
その発言に、私はどぎまぎした。
知らない男の子が、私のことを知っている。そして、家まで出向くほどの用があると言う。これが普通の少年だったら、告白でもされるのだろうかというくすぐったい期待を僅かばかり抱いたかも知れないが、彼は背中に羽を背負い、物理法則を無視して空中浮遊する謎の人物であるので、私の中では困惑が勝る。
「君に話したいことがある」
彼の言葉は棒読みとも言える抑揚のない口調で短く紡がれる。
「聞いてくれる?」
「えっ……」
彼の真っ直ぐな視線を受け、返答に詰まった。
彼は一体何を話したいというのだろう。間違っても告白などという甘いものではない予感がした。
何が飛び出してくるのか、少し怖い。けれど、気になる。ここで断って彼と別れては、その内容が気になって気になって仕方がないだろう。
だから私は。
「はい……」
恐る恐る、そう答えた。
すると彼は。
「来て」
そう言って、私に背を向けて歩き出した。遠ざかっていく彼の後ろ姿。そのまま暗がりに溶けてしまいそうな雰囲気だった。
てっきりこの場で話すものだと思っていた私は、曲がり角の向こうへ消えようとしている彼を慌てて追い掛けた。
「どこへ行くんですか?」
彼の後を追いながら、当然浮かぶ疑問をぶつけてみる。
「公園」
彼は素っ気なく答えた。
「公園?」
「そう」
彼の進む方向からして、角を二つ曲がった先にある児童公園だと思われる。
そこで、ふと不安が頭を過った。
――公園で仲間が待ち受けていて絡まれる、なんてことになったら、どうしよう。
華奢で細腕な彼からは暴力的な危険性は全く感じられないが、それだけに、可愛い見た目でだまくらかして女を誘うという役割なのではないか。油断してついてきた女を仲間で囲って袋叩きにするつもりかも知れない。私はそんな嫌な想像を膨らませておののいた。
不安に苛まれながらも逃げられずにいるうちに、とうとう公園に着いてしまった。
「ここでいいんですか?」
そう聞くと、彼の首が小さく上下した。
心配は不要だったようだ。そこには私達以外に誰もいなかった。
そこは、ブランコ、滑り台、鉄棒、砂場がコンパクトに収まった小さな公園だ。私も幼い頃はよくここに来て遊んでいたが、近頃はすっかり縁がなくなっていた。
彼はどんどん公園の奥へと進んで行き、ベンチの端にストンと腰を下ろした。それに倣って、私も彼の左隣に腰掛ける。
沈黙が流れた。公園を吹き抜ける微風の音だけが静かに響いている。
私は彼を見た。俯いて足元に視線を落としている彼は、瞬き以外ピクリとも動かない。
「あの」
いつまで待っても話し始める気配がないので、私はこちらから話を促すことにした。
「お話って、何でしょう?」
「…………」
彼は数十秒沈黙を保った後。
「……君は」
下を向いたまま小さく口を開き。
「僕を何だと思ってる?」
妙な質問をしてきた。
「え?」
私は聞き返す。彼のそれはどう考えても「お話って何でしょう」に対する返答として適切なものではなかった。
更に首を捻ってしまうのは、彼の質問は「どう思っているか」ではなく「『何だと』思っているか」だということ。前者でもこのタイミングで発するのは謎なことには変わりないが、後者は質問そのものの意味がわからない。
「どういう意味ですか?」
そう問ったが、彼は解説してくれる気はないようで、下に傾けていた頭をもたげ、隣にいる私に顔を向けて視線を合わせると、私の回答をじっと待つ。
そんな無表情で見つめられても困る。
説明をもらえなかった私は独自に解釈して答えるしかない。なので、まず、私が彼に抱いた印象を言葉にしようと決めた。
「ええと、そうですね。私よりお若いですよね。中学生ですか? それから、この辺りに住んでいる方ではないですよね。お見掛けしたことありませんし。とても綺麗な男の子が家の前にいるのでびっくりし――」
「そうじゃない」
言い終える前に、彼が私の言葉を遮った。
「何か、違いましたか?」
「違う」
では彼はこう見えて私と同い年くらい、はたまた年上なのか。または、私が知らないだけで近くに住んでいたのか。そう考えたが、彼が「違う」と言ったのはそういうことではないらしかった。
「そんな細かいことを聞いてるんじゃない」
彼は短く息を吐くと、こう言った。
「僕を人間だと思ってるの?」
その言葉に、私は固まった。
心の片隅、いや、心の中の結構な範囲を占めていた「彼は何者なのか」の予想、それは確かに人間ではないものだったが、核心に迫る話を本人から切り出されるとは思わなかった。
「人間……では、ないんですか」
そう尋ねると。
「ない」
即答された。
まさか、という思いと、やはり、という思いが入り交じる。彼が人間でないとすれば何に見えるか。そんなの決まっている。
「じゃあ、……天使、とか」
私はとうとうその単語を口にした。もちろん、半分くらいは冗談のつもりだった。彼の声が冷たく「何言ってるの」と返ってくるだろうと思っていた。
しかし。
「……そう。この国ではそう呼ぶのが適切だと思う」
彼は真顔で肯定し、私は言葉を失った。
絶句した私をどう思ったかは知らないが、彼は淡々と続ける。
「信じられないのは、無理はない。人間の大半は異世界の生物の存在を認めない思考を持つ、ってことは聞いてきた。……けど、僕が天使と呼ばれる種なのは事実」
感情の欠落した表情と口調。それだけに、冗談で私をからかっているとは思いづらい。こんな無感情に、付き合いのない人間に突飛な冗談を話す人がいるだろうか。
「だから、理解して欲しい」
理解してくれと言われても。
彼の背を覆う純白の翼は元より、今気が付いたが、彼の頭上には淡く光を纏う輪のようなものが浮かんでいる。その姿は天使のコスプレそのものなのだが、声を聞けば聞くだけ、彼の態度は天使のイメージから大きく外れていく。
天使とは、もっとこう、清らかで朗らかで、優しさに溢れているもの……というのが、共通認識であると思う。このように無愛想な人が天使を名乗るのは、無理があるのではないだろうか。
彼の視線を受けながら黙り込んでいた私は、ある疑問を口にした。
「では、その羽は本物なんですか? 衣装でなく」
気になるのはそこだった。彼の背を覆う白い翼、それは本物なのか。
「当たり前でしょ」
証拠を示すように、二枚の翼が広がり、緩やかな羽ばたきを見せた。生き生きとしたその動きは操り糸でもゼンマイ仕掛けでもなさそうだった。
「触らせないけど」
まじまじと翼を眺めていると、彼は牽制するように少し鋭い声で言った。その一言で気付く。私の右手は、知らず知らず、彼の左翼へと伸びていた。
「……そうですか」
私は中途半端に差し出していた手を引っ込めた。触って確認したいと思っていたので残念だ。
そんな私に彼は言う。
「触らなくても、この羽が本物っていう証拠なら見たはず」
「証拠?」
「普通の人間は、作り物の羽をつけようと、空は飛べない」
私の脳裏に二つの光景がフラッシュバックする。そうだ、私は彼が宙に浮くところを二度目撃している。建ち並ぶ民家の屋根の高さを飛行しどこぞへ消えてしまった一度目。足が地を離れたところを私が飛び掛かって押し倒し、地上に引き戻した二度目はつい先程のことだ。
彼の言う通り、人間は己の身体に羽をつけたところで空を飛ぶことなどできはしない。と、いうことは。
「本当に、天使なんですか……?」
どうやら本当の話なのかも知れない、と思ってしまった私は、遅まきながら驚きに目を瞠った。
「そう」
彼は頷く。しかし、まだ完全に信じることなどできない。私は半信半疑のまま、話を先に進める。
「仮に。仮に、あなたの話を信じるとして、ですよ。その天使さんが、どうして私のところに?」
「頼みがあったから」
「頼み? 何です?」
彼は斜め下に目をそらした。
彼の表情は、注意深く見なければわからないほど微かに、無表情から変化した。その顔は苦しげで、話すことを躊躇っているように見えた。
しばし沈黙が続いたが、不意に彼が顔を上げ、言った。
「僕のパートナーになって欲しい」