heavenly blue 第一章 天使と双子
二階の自室で、制服を脱ぎ、ティーシャツとジーンズというラフな格好に着替えた私は、机に向かって今日購入した文庫を開き、読書をする体勢に入った。
しかし、何度文字を目で追っても、その内容は頭に入ってこなかった。
「駄目だ」
私は左右に首を振った。
かれこれ二十分近く同じ文章を見つめ続けているというのに、全く意味を理解できない。
今、私の頭は、先程見た光景の衝撃を消化しきれておらず、大好きなはずの小説を楽しむだけの余裕がない。すなわち、容量オーバーなのである。
仕方なく本を閉じて机に置き、溜め息を吐いた。彼は一体何だったのだろう――頭に浮かぶのは、名前も知らない謎の少年のことばかりだった。
彼は背に生えた翼を広げて飛び立ち、空へと消えたのだ。最早、不思議の域を通り越して怪奇である。そんな光景を目にして平静でいられるわけもない。
「あの子、人間だったのかしら」
そう呟いた私は、五秒ほど考え、いやいや、と思い直した。人間以外の何だ、という話である。幽霊だった、とでも言うつもりか。
(幽霊と言うよりは)
私は、机に置いた本の表紙に目を向けた。そこには、二人の天使が背中合わせに立つ、華やかなイラストが描かれている。
「こんな感じだったけれど」
表紙に描かれた天使の少年を指先でなぞる。中性的な美しい顔立ちに、背の純白の翼。そんな天使の絵と、彼の印象はぴったりと重なる。
ならば、彼はもしや。
(……なんてね)
自分の考えに一笑すると、椅子の背もたれに体重を掛け、頭を後ろに倒して天井を見上げた。
何を馬鹿なことを考えているのだろう。彼は天使だったのかも知れない、だなんて。
天使などいるはずがないではないか。いや、もしかしたらどこかには存在するかも知れない。存在してほしい。しかし、我々人間がその姿を見ることができるものではないはず。
だからきっとあの人は、私の見間違いか、妄想か、幻覚で。
(ちょっと残念だけれど、それが現実か)
小説のように不思議な出来事など、起こるはずがないのだ。それは小学生の頃の私が身を持って味わい、悟った現実の姿である。
(それにしても、凄く綺麗な子だったな)
目を瞑り、瞼の裏に彼の顔を思い描いた。彼が実在するにしろ、私の頭が作り出した妄想にしろ、もう二度と会えないのは惜しいと思った。
(もしかして私、ああいう子がタイプ……?)
ふとその可能性を考え、自分のことながらあまりの意外さに驚いた。自分の好みの男性のタイプなど深く考えたことがなかったが、もしかしてそうだったのか?
(いや、まさか)
私が年下好きで面食いだったなんて、まさかそんなはずは。
(違う違う、彼は誰が見たって美少年なんだから。私が特別に意識しているわけではないはず)
そう自分に言い聞かせるように思った時、私を呼ぶ声がした。
「志麻ー、ちょっといいー?」
階下から響いたその声は、聞き慣れたお母さんのもの。私は考えることをやめ、椅子から立ち上がって部屋を出た。
「なあに?」
階段の下を覗くと、こちらを見上げるお母さんと目が合った。
「肉じゃが作ったから、御門さん家に少し分けてきて欲しいんだけど。ひとっ走り、お願いできる?」
「あ、うん。いいよ」
私は快諾し、タタタと階段を駆け下りた。
「お願いね」
お母さんがタッパーを差し出す。受け取ると、容器の中のほのかな熱が掌にじんわりと伝わってきた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
そのまま、目の前の玄関で靴を履いて、家を出る。外の空気は、先程より少しだけ冷たくなっていた。
目的の御門さんの家は私の家の隣なので、少し歩けばすぐに到着する。私は両手で持っていたタッパーを左手だけで持ち、空いた右手で呼び鈴を鳴らした。
『はい』
少しの間を置き、インターホンから若い男性の声が聞こえてきた。
「時雨です。少しですけれど夕飯のおかず持ってきたので、よろしければもらってください」
『ああ、志麻ちゃん? ちょっと待っててね』
通話が切れ、程なくして扉が開いた。
「お待たせー」
爽やかな笑顔で現れたのは、眼鏡を掛けた好青年。御門さんの息子さん、響さんだった。
「こんばんは。これ、肉じゃがです。召し上がってください」
「あー、ありがとう! 志麻ちゃん家の肉じゃが美味しいんだよね。嬉しいな」
響さんは言葉通り嬉しそうに笑い、私が差し出したタッパーを受け取った。
「それじゃ、失礼しました」
私は頭を下げ、扉から一歩退く。
「あ、待って」
「はい?」
帰ろうとした私を響さんが呼び止めた。振り返ると、響さんはにこやかに言った。
「せっかくだし、ちょっと上がっていきなよ。インスタントコーヒーくらい、ごちそうするよ」
「いえ、お構いなく」
私はただおかずを届けにきただけである。気を遣われては申し訳ない、と丁重にお断りしたのだが。
「遠慮しない遠慮しない」
響さんは歌うように言いながら私の腕を掴み、私を玄関の内側に引っ張り込む。男の人の力に敵わず、私は家の中に片足を踏み入れてしまった。
「い、いえ、本当に結構です……――あ」
その時、唐突に、あの光景が再び頭に蘇った。
もしかしたら。他の誰に話しても信じてはもらえないであろうこの話も、響さんなら馬鹿にせず聞いてくれるかも知れない。全て話して、結果、冗談だと思われるならそれはそれで仕方がない。実際目にした私ですら何かの間違いだろうと思うのだから。それよりも、誰かに話して客観的な意見を聞いてみたいと、そう思った。
そろりと、響さんを見上げる。
「どうしたの?」
首を傾げる響さんの顔を見て、私は意を決した。
「少し、お話ししたいことがあるんです」
そんな私の言葉を聞いた響さんは。
「話? いいよいいよ、上がってよ」
そう快く受け入れ、私を家の中に招き入れる。私は「お邪魔します」と言って靴を脱ぎ、響さんの後に続いた。
「適当に座って」
リビングに通された私は、最初に目に付いた、リビング中央にあるソファを選んで腰掛けた。
「待ってて、コーヒー淹れてくる」
「そんな。お気遣いなさらないでください」
「気にしないで。寧ろ、僕が飲みたいからさ、付き合ってよ」
そう言ってウインクを残し、響さんは台所に向かっていった。
やがて台所から戻ってきた響さんは、テーブルに二つのコーヒーカップを置いた。一つは私の目の前に、もう一つは自分の手元に。
「はい、お待たせ、志麻ちゃん」
「ありがとうございます」
私は、既に砂糖とミルクを入れてある柔らかなブラウンの水面に口をつける。温かい。
「美味しいです」
「そう? よかった」
響さんは私の好みを把握している。甘さ控えめでミルク多めのまろやかな味は、私の味覚にストライクであった。
「で、何だっけ。話があるんだよね?」
響さんは私の右側にある一人掛けのソファに腰を下ろし、ブラックのコーヒーを一口飲んでから私に問った。
「信じていただけるかわからないのですが」
私は慎重に口を開き、手始めにこう言った。
「さっき、不思議なものを見たんです」
「不思議なもの?」
「……空を飛ぶ人です」
響さんは目をパチクリさせた。ああ、痛いと思われるだろうか。不安になったが、ここまで言ったのなら開き直って最後まで話すより他ない。私は躊躇いを振り払って続けた。
「私の家の前にいて、私の部屋を見つめていた人なんですけれど。その人の背中には白い翼があって、初めは作り物だと、衣装か何かだと思っていたんですが、その羽が鳥のように羽ばたいて、その人は宙に浮いて。そしてそのまま空を飛んで、どこかに行ってしまって……」
自分で話しておきながら、頭大丈夫か私、と思う。有り得ないにも程がある。
「――という話、なんですけれど……」
私の声はフェイドアウトしていく。やっぱり、話さない方がよかったかも知れない。響さんにこんな話を聞かせて、どう反応してくれというのだ。
気まずくなって、ちまちまとコーヒーを飲みながら俯いていると、響さんは「へえ」と呟いた。
「そんなことがあったんだ。そりゃびっくりしただろうね」
その言葉は馬鹿にしているわけでも、引いているわけでもなかった。
「信じてくださるんですか?」
顔を上げて響さんを見ると、響さんは穏やかな微笑みを湛えていた。
「もちろん。志麻ちゃんが嘘吐くはずないでしょ。下らない冗談言う子じゃないし。本当に見たんだよね?」
それはいつも通りの響さんの優しい笑顔だったので、私は安堵の息を吐いた。
「よかった……! 私、誰かに話したら、頭がおかしいと思われるんじゃないかって不安で」
「そんなことあるわけないじゃん」
「それじゃ、響さんは、私の見たものは何だったと思いますか? やっぱり空を飛ぶだなんて……見間違いだったのでしょうか?」
「何言ってるの」
響さんは眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。そして。
「どう考えてもそれは天使でしょ」
そう、人差し指を立てて言い切った。
「て、天使?」
私は面食らった。一度は私も考え、しかしすぐにその可能性を打ち消した単語が、響さんの口からこうも簡単に出てくるとは。
響さんは「そうだよ」と頷くと、途端に瞳をキラキラと輝かせた。
「この町に天使が来るって、すっごく久し振り! 何年振りだろ、僕が中学の頃だから五年くらい? いやー、僕もその子に会いたかったなぁ」
その言葉に、私は戸惑う。響さんの弾んだ声の中に、聞き捨てならない言葉が沢山あった気がする。
「あの、久し振り、ってどういうことですか?」
まるで、前にも天使が来たことがある、とでも言うような口振りであった。すると、響さんは言う。
「あ、実は、僕も昔何回か天使と会ったことあるんだけど」
「天使と会った!?」
私は大声を上げてしまった。待て待て、予想外のエピソードが飛び出してきたぞ。
そんな私に、響さんはきょとんとした顔をする。
「何驚いてるの。志麻ちゃんだって、さっき見たんでしょ?」
「そ、それはそうですけれど」
それはそれ、これはこれである。大体、まだ私の見たものが天使と確定したわけではないのだし。
「その時の子達、皆美人だったなー。天使って人間離れして綺麗だよね。まあ、実際人間じゃないわけだけど。もう一度会えないかなぁ」
遠い目をする響さん。私は自分があの光景を見た時以上に混乱した。何だ? 私が知らないだけで、天使とはそこかしこに存在するものだったのか? ――そう思ったその時だ。
「馬鹿言ってんなよ」
そんな声と共に、廊下に繋がる開きっ放しの扉から人が現れた。その人はこちらにつかつかと進んでくると、躊躇なく響さんの頭に拳を落とした。
「痛っ」
「志麻ちゃん、響のホラに聞く耳持つな」
その人は私の隣にどかっと腰を下ろし、顎をしゃくって響さんを示した。
「ったく、この間は地縛霊、今度は天使か? 不気味なホラ吹きやがって、気持ち悪いんだよ」
そう言う彼は、御門奏さん。あまり似ていないが、響さんの双子の弟さんである。
「痛いなぁ。殴ることないじゃん。奏は本当加減しないよね」
響さんはそう言いながらも笑っている。ここの兄弟は、兄が甘い。
「っていうか奏、何盗み聞きしてるのさ。やらしいな」
「たまたま聞こえたんだよ」
奏さんは手を伸ばして響さんのコーヒーカップを掴んだ。
「あ、飲みたいなら自分で淹れてよ。それ僕のなんだから」
「喉渇いてんだよ。一口くらい良いだろ、ケチ」
そう言うと、奏さんは残り少ない中身を一口で一気に飲み干した。
「ご馳走さん」
奏さんは澄ました顔でカップをテーブルに置く。
「一口は一口だけどさ、一口って言って全部飲む人いる?」
空になったカップを見つめて呟く響さん。二人のやり取りを見て、私は黙って笑いを堪えていた。
「ま、別にいいけどね。それより、さっきの話だけど、奏も聞いてたんなら話は早い。奏は、志麻ちゃんが目撃したのは何だって言うの?」
優しい響さんはそれ以上の文句を言わず、逸れた話を元に戻した。話を振られた奏さんは明るい色の茶髪を掻き上げる。
「そいつは天使の格好した人間で、空を飛んだってのは見間違い、目の錯覚だろ」
響さんとは対照的な、あっさりとした回答。ああこの考えが普通なんだ、と、響さんの話で麻痺していた意識が、奏さんの言葉によって正された。
「えー、空を飛ぶとこを見間違い、なんてある?」
「逆だろ逆。見間違い以外に有り得ねえっつーの」
奏さんはそう吐き捨てる。
「そもそも志麻ちゃんだってそいつが天使だったなんて思ってねえよ。な?」
奏さんが私に顔を向けたので、私は戸惑いながら答えた。
「は、はあ。私の見間違いだろうな、とは思ったんですが、一応誰かに聞いてもらいたくて」
「ほらな。っつーかそれで相談相手にこの電波野郎を選ぶのは明らかに間違いだぜ。こいつ昔から霊感があるって言い張るんだよ、馬鹿だろ?」
「霊感?」
聞き返すと、奏さんではなく響さんが「そうそう」と答えた。
「昔から、他の人には見えてないらしいものが色々見えるんだよねー」
「そうだったんですか!?」
突然の告白に驚く私の頭を奏さんが「信じるな、志麻ちゃん」と小突いた。
「響の十八番のホラに決まってんだろ。霊なんかいて堪るかってんだよ」
奏さんはフンと鼻を鳴らした。それに対して、響さんが笑う。
「奏は怖がりだから、信じたくないんだよね?」
「そんなんじゃねーよ! 俺は常識として言ってんだよ!」
そう叫ぶ奏さんはムキになっているようにも見えた。確かに奏さんはちょっと怖がりな人なのだった。それが関係しているのかは定かではないが、奏さんは響さんとは比べものにならないほど現実的な考えを持っているようだ。
「それよりだ」
奏さんが咳払いをして話を変える。
「その天使っぽい奴、そいつ男?」
と、そんな質問を投げ掛けてきた。
「はい、男の子でした」
私が彼の姿を思い出して答えると、奏さんは渋い顔をした。
「志麻ちゃんの部屋見てたんだろ? ひょっとしてストーカーじゃねえの、そいつ」
「ストーカー?」
私は目を丸くした。
「まさか。そんな人には見えませんでしたよ。そもそも、私のストーカーなんて物好きが存在するはずありません」
「いや、有り得るだろ。志麻ちゃん結構美人だし。真面目なタイプだから大袈裟には持て囃されないだろうけど、隠れファンとか多そうじゃねえか」
「か、隠れファン……?」
そんなものがいるはずもない。ただ、もしいたとしても、名前の通り隠れているわけであるからわかりようもないが。
「またこの辺でそいつ見掛けて、ちょっとでも怪しいと思ったらすぐ俺に言えよ。俺が追い払ってやる」
奏さんは私の右手を取って顔の前まで持ち上げると、両手で強く握った。真っ直ぐ見つめてくる瞳は真剣で、私はどうしていいかわからず目を泳がせた。
すると響さんが呵々と笑った。
「だーいじょぶだって、奏、心配し過ぎ。天使が危害加えてくる訳ないでしょ」
「お前はその天使とかいう考えを一回消せ」
奏さんに冷たく言われ、響さんは考える素振りをした。
「確かに、万が一その子が悪霊の類いだったら困るか」
そして、今度は響さんが私の左手を掴む。
「志麻ちゃん、僕にできることなら何でも助けになるから、何かあったらいつでも相談してね」
そう言いながら、手を握ってゆらゆらと左右に揺らされた。
「……ありがとうございます」
私はこの奇妙な状況に戸惑いながらも、二人に頭を下げた。
かくして私には、あの「天使」がストーカーだった場合と、悪霊だった場合に助けを求められる相手ができたのであった。