光の旋律 終章 終わりと始まり
ギルドの一室を借りて、オーガストさんの怪我の手当てを始める。
オーガストさんの広い背中の美しい肌が、焼けて爛れているのが痛々しい。私は傷に手を翳し、そっと治癒の呪文を唱える。
私の治癒魔術は完璧ではなく、負傷者が感じる痛みの三割程度が私にも流れ込むという副作用があるので、私の背中もひりりと痛んだ。けれどオーガストさんはもっと辛いのだし、その痛みを顧みることなく身を挺して私を庇ってくれたのだ。
やがて傷跡が薄くなっていき、私はオーガストさんの背から離れた。
「いかがでしょうか?」
「ああ、痛くない。ありがとうな」
「お礼を申し上げなければならないのは私の方です」
今も、あの瞬間を思い出すと涙が出そうになる。
「もう無茶なことはしないでください。オーガストさんに何かあったら、私は……」
言いながら、私の瞳からはとうとう涙が一粒零れてしまった。
「俺が少しくらい怪我したって、あんたが無事だった方がよっぽど嬉しい」
オーガストさんが私の頭を撫でる。その感触が優しくて、私はもっと泣いた。
「悪かった。でも俺はあんたの護衛だ、これからも似たようなことがあったらこうなるかも知れないが、あんたに心配かけないように気を付ける。だから泣かないでくれ、フィーユ」
「はい……えっ?」
さらっと聞き流しそうになったが、一拍遅れて私は素っ頓狂な声を上げた。フィーユ。思えばオーガストさんが私の名前を呼んだのは初めてのことだ。
私を撫でるオーガストさんは優しい目をしていて、いつもの仏頂面に僅かに照れたような微笑を滲ませていた。
「あんたが俺を呼ぶと、何か安心するってことに最近気付いた。だから俺もあんたを名前で呼びたくなったんだが、駄目か?」
「いえ、駄目なはずありません。とても嬉しいです」
「フィーユ……で、合ってるよな?」
あまりに「女」と呼ぶことに慣れ過ぎて、オーガストさんは私の名前が曖昧らしい。
「はい、フィーユ・ブランシュと申します」
改めて自己紹介をするのが何だか可笑しくて、私の涙は自然と引っ込んだ。
初めて呼ばれる名前は、これから少しだけ私達の関係が変わる、そんな始まりの予感がした。
†
その扉の向こうでは。
「うーん」
オーガストさんのお見舞いに来たのだが、仲睦まじく幸せそうな二人の気配を感じ、邪魔をするのが憚られて中に入りあぐねている俺がいる。
「何してるんだ、リヒト」
「あ、グレイシア教官。今はお二人がいい雰囲気なのでもうちょっとここで待ちましょう」
「私はそういう機微がわからんが、そんなものか?」
わからないとは言いつつも俺の言葉に従って、グレイシア教官が扉に凭れる。
「それにしても、シェイド・ローウェルの思惑が謎だよな。彼が盗んだ張本人なのかは定かではないが、一度手にした魔石をわざわざ返したのだって意味がわからない。仮にも高い志で騎士になった男だ、単純な『悪』ではないのだろうとは思ってはいたが」
「はあ」
正直、俺には難し過ぎて何が何だかわからない状況なので、最早「はあ」としか言えない。するとグレイシア教官と俺が凭れている扉が動いた。
「リヒトさん、グレイシアさん。どうなさったのですか、このようなところで」
現れたのはフィーユさんだった。続いて、オーガストさんも部屋から出てきて「何やってんだ」と変なものを見るような目で俺達を見た。どうやら治療は終わったようだ。二人のお邪魔をしたくなくて溜まっていましたとは言えないので、俺は適当な微笑みで濁した。
「火傷は大丈夫ですか?」
「ああ、フィーユが治してくれた」
オーガストさんはさらりと言ったが、俺はおや、と思う。オーガストさんが誰かをちゃんと名前で呼ぶのなんて初めて聞いた。確実に縮まっている様子の二人の距離を感じてふんわりとした気分になる。
「それはよかった。流石です、フィーユさん」
グレイシア教官はそんなことには気付いていなさそうだ。それよりフィーユさんの魔術の腕に興味があるのだろう、それからいくつか医療魔術について質問をしていた。
ひとまず、今日泊まる宿を探さなければならない。俺達が揃ってギルドを出ると、思わぬ人がそこにいた。
「シェイド……!」
その人物は叫びそうになった俺の口を乱暴に塞ぎ、俺を無視してグレイシア教官に微笑み掛けた。
「あれから少し頭を冷やしましてね。あなたの言う『話』とやらをする気分になったのです」
にこにこと笑うシェイド・ローウェルは、特に敵対しているわけではない者にだけ見せる穏やかな青年の皮を被っていた。彼の二面性を改めて感じて俺はぞっとする。
彼の隣にはネイ皇女がいた。彼女を見て、オーガストさんがフィーユさんを守るように引き寄せながら口を開いた。
「よく平気で俺の前に出てきたな」
「……ごめんなさい」
「謝ったくらいで許すつもりはない。それに、謝るとしても相手は俺じゃない。フィーユだ」
いつも冷めた口調のオーガストさんだが、今はそれとは明らかに違う棘を含んでいた。敵意を向けられているネイ皇女は悲しげに俯く。
その様子を見ながら、グレイシア教官は片眉を上げて腕を組む。
「で、本当に腹を割った話をする気でいるのか? そりゃ私から誘い掛けはしたが、貴様らが私の国や仲間を散々傷付けてきたことに変わりはない。手放しで信用できるわけではないとわかっているよな?」
「当然です。ただ、それでも尚、目先の感情だけに支配されないあなたに私は惹かれているのです」
そう言って、シェイド・ローウェルはうっとりとした笑顔を見せる。彼の美しい顔が、俺にとっては怖いだけだ。
「ですが先程の通り、私は窃盗の容疑者と疑われているのでね。この場所に長居するのは危険なのです。少し場所を移させてください」
「妙な真似をしたら叩き切るからな」
「ふふ、肝に銘じておきますよ。ご安心ください」
小首を傾げて微笑み、シェイド・ローウェルが背を向ける。
「では、こちらに――」
そこから、俺達の旅は大きく動き出すことになる。始まりを告げるように、傍らの鳥が翼を大きく広げて空に飛び立っていった。
Chapter.01 光の旋律 - fin.