光の旋律 序章 Case.01 Sister


 ナフィティア大陸の片隅、海沿いの小高い丘の小国・レゼル王国。安寧の国と呼ばれ、長年中立を保つこの国の麓にあるのは、小さな教会と修道院。私はここで暮らす修道女である。
「神父さま、ごきげんよう」
「やあ、フィーユ。今日もよろしく頼むよ」
「はい!」
 私の特徴とも言える薄色の髪と瞳はレゼルでは珍しい。数年前、記憶すら持たずに森を彷徨っていた私を拾ってくれたのが、まだ若い神父のジョシュアさまだ。
 祈りを捧げ、神話を学び、教会の掃除をして、城下町まで買い物へ出掛けて。神父さまを支え、町の人々へ奉仕するのが今の私のお役目である。


 その日、買い物の帰り道、ふと妙な匂いが鼻を掠めた。
 錆び付いたようなその匂いを辿って、私は海辺まで足を運んだ。すると。
「……!?」
 そこで目の当たりにした光景に驚いた。海岸に打ち上げられた人魚の青年が、傷だらけで倒れていたのだ。
「人魚さま、大丈夫ですか!?」
「誰だ……?」
 褐色の肌をした彼は、瞑っていた目をゆっくりと開く。
「麓の教会の者です。いけません、血が……!」
 彼の身体から滲み出る血液に、私は狼狽えた。ここから一番近い診療所は何処だっただろう、と懸命に記憶を辿る。
「放っておけ……この程度何でもない」
 そう言って、彼は苦しげに呻いたが、私を見て舌打ちをすると、身を翻して海へ飛び込んだ。
「あっ……」
 私はなす術もなく、彼の気配が遠ざかってゆくのを黙って見送っていた。


「フィーユ? どうしたんだい?」
 夜。一日中上の空で働いていた私が気になったのであろう、神父さまがそう話し掛けてきた。
「神父さま。海で暮らす人魚さま方の話は知っていらっしゃいますよね?」
「ああ、勿論」
「今日、買い物の帰り道で、打ち上げられた人魚さまに出会ったのです」
 その経緯を説明すると、神父さまは真剣に話に耳を傾けてくれた。
「そうか、フィーユは彼が心配なのだね?」
「はい。酷い怪我をしていらっしゃいました」
「今は祈りなさい。そして明日様子を見に行ってくればいい」
「はい、神父さま」
 けれどその日はなかなか眠りに就けなかった。辛そうな彼の姿、そして私に向けられた黄金色の瞳が脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
(どうか彼が無事でいますように)
 願わくは、明日、もう一度出会えますように。
 そう祈り、私は終わりゆく今日に目を閉じた。



 翌日、朝拝を終えると、私は真っ先に海岸へと向かった。
 彼は、いるだろうか。そう思い騒ぐ心を抑え、海辺を歩く。
「あっ」
 岩場の陰に、彼はいた。しかし、私の漏らした声が聞こえると、彼は身を翻そうとした。
「待ってください人魚さま!」
 慌てて駆け寄り、彼の腕を掴んだ。すると。
「きゃっ」
 岩に足を取られ、私は前のめりで倒れた。転びそうになった私を、彼が抱き留める。
「何やってんだ、あんた」
 低い声で呆れたように呟く彼。
「すみません、ありがとうございます」
 ごつごつとした岩場だ。転倒していたら出血を伴う怪我をしていただろう。彼を心配していたというのに逆に助けられるとは。体裁の悪さで身を縮ませていた私だが、はっと気付いた。
「それより、あなたのお怪我は大丈夫ですか」
 彼には、昨日ほどではないが、ところどころに切り傷のようなものが窺える。痛々しいその傷に私はそっと手を伸ばした。
「早く診察してもらわないと」
「病院か? 俺は行かないぞ」
「でしたら、少しだけですが、医療魔術の心得がございます。気休め程度にしかならないかも知れませんが」
 彼の傷に手を翳し、治癒の呪文を詠唱して傷を癒した。傷跡が消えてゆき、彼は驚いた瞳を私に向ける。
「な、あんた……」
「どうでしょうか?」
「……まあ、礼は言う」
「よかったです」
 微笑んだ私とは対照的に、彼は居心地悪そうにしていた。
「何があったのか、伺ってもよろしいですか?」
「別に何でもない」
 それだけ言うと、彼は昨日と同じように、海に飛び込んだ。
「あ」
 待ってください、と言おうとした私だが、彼は泳ぎ去ることはなく、海水に下半身を浸したままこちらを振り返った。
「おい女」
「はい?」
「この恩は忘れない、一応な」
「は、はい……? あ、いえ、私は大したことはしていませんよ」
「それでも俺が助けられたことに変わりはない。だから、ちょっとそこら辺に座って待ってろ」
 彼はそう言い残して海に潜ってしまった。私は言われた通り、岩場に腰掛けて彼を待った。
 五分、十分、十五分と時間だけが過ぎてゆき、このまま待ち続けてもよいものか、と思い始めた頃。水面から彼が姿を現した。
「……えっ?」
「待たせたな」
 滴る水を払いながらこちらに来る彼は、先程の姿ではなかった。服を身に纏っているし、黒々とした、シャチに似た力強い尾びれだった下半身が、人間の脚になっているのだ。
「え、えっ? ど、どうなさったのですか?」
「魔女から薬を借りてきた。人に姿を変えられる薬だ」
「何故です?」
「あんたに恩を返す為だ」
 そう言って彼はずいと顔を寄せてきた。
「さあ何が望みだ」
「え、あ、あの?」
「金品でも労働でも……俺にできることなら、何でもいい。言ってみろ」
 猛スピードの展開に私はパニックを起こした。
 初めて会った時から思っていたことだが、彼には妙な色香がある。褐色の肌の、逞しい体つき。彫りが深く、大人びた美しい顔立ちの、黄金色の切れ長の瞳。襟足の長い、緩くパーマの掛かった焦げ茶色の髪が、濡れた首筋に張り付いて絶妙な色気を放っている。
 そんな彼に息が掛かるほどの至近距離で迫られては、神父さま以外の男性と接する機会などほとんどなかった私は非常に困ってしまうではないか。
「いえ、別に見返りを期待してしたことではありませんのでお気になさらないでください」
「俺の気が済まない」
「本当に結構ですのでっ!」
 と叫んで、私は彼から逃げ出した。
(な、何なんでしょう、あの方。無口で怖そうな方だと思っていたのに、急に……)
 熱くなった頬を押さえながら教会への道のりを辿ってゆく。やがて教会が見え、一安心すると、丁度扉が開いて神父さまが顔を出した。
「おやフィーユ、帰ったのかい?」
「あ、神父さま」
「そちらが例の彼かい? 無事だったのだね」
「え?」
 そちら、と聞いて、神父さまの目線の先を振り返ると。
「ここがあんたの家か?」
「きゃ――っ!!」
 私は思わず絶叫した。振り払ったと思った彼がついてきていたのだ。
「な、何なんですか! ついてこないでくださいよ!」
「あんたこそ何で俺から逃げるんだ。俺が怪我をしてる時はしつこかったくせに」
「それは純粋に心配していたからで……とにかく帰ってくださらないと困ります!」
「貴重な薬を借りてきたんだ、あんたに恩を返すまで帰るわけにはいかない」
 言い合いを始めた彼と私を不思議そうに見守る神父さまが、「そうそう」と話し掛けてきた。
「フィーユ、丁度いい。実は先刻王宮から連絡があってね。医療魔術に長けた者を、一人紹介してくれないかという話だったのだが、行く気はないかい?」
「えっ?」
「少々危険を伴う任務になりそうだという話で、フィーユ一人に任せるのは心配だったんだが……彼に同行してもらえばいいじゃないか」
「ええっ!?」
 突然持ち掛けられたその話に、私が驚く暇もなく。
「俺はそれで構わない」
 まだ詳細を聞いてすらいないのに、彼は唐突な提案に困惑の色も見せず、勝手に神父さまに同意してしまうし。
「いえ、ちょっと待ってください神父さま」
 待ってくれ、誰かこの状況を説明してくれ、と私は懸命にストップを掛けるのだが。
「まあまあ、フィーユ。彼は悪い人ではないのが見て取れるよ。これから二人で、じっくりと話をすればいい」
「司祭。あんた、話がわかるな」
「え、えっ!?」
 当事者であるはずの私を置いて、話がとんとん拍子で進んでしまう。


 そして、何故か私は。
「フィーユ・ブランシュさまですね。これから、どうぞよろしくお願いいたします。俺は、騎士のリヒト・エーデルシュタインです」
「同じく、グレイシア・セシルと申します。それで、そちらの方は」
 私の隣で彼が答える。
「護衛代わりのオーガスト・エル・エスだ」
「…………」
 得体の知れない彼――オーガストさんと共に、王宮からの任務に出発することとなってしまったのだった。